第1報:今年2回目の阿波国探訪 | kyoritsu-utsunomiyaのブログ

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今回も「日帰り」「マイル旅」です。

羽田発6:55のJAL便で徳島空港には8:15着、帰りは20:30発、目一杯時間が有効に使えます。

朝と言ってもまだまだ暗い羽田空港

明後日の22日が冬至なので、当たり前です。

機内で寝ているうちに1時間ほどで徳島空港に到着。

阿波踊りのモニュメントもクリスマスバージョンでした

歩いてすぐのレンタカー屋さんに向かいます。

借りたのは黒のヤリス

ヤリスで向かったのは「邪馬台国では辰砂が採れる」と魏志倭人伝に記載のある若杉山遺跡です。

辰砂とは水銀朱とも呼ばれる硫化水銀、化学記号ではHgSです。

赤い顔料の元になる鉱物です。

住所的には徳島県阿南市水井町、徳島県南部の山中になります。

ナビに従って対面通行不可の1本橋を渡ります。

右奥が若杉山のようです

道路脇の標識に「若杉山遺跡」とあったので、その方向に行くと

蛭子神社に行き当たりました

道を間違えた事に気付きました。

でも折角なの車を降りて参拝しました。

境内社が多数あります

石碑に「若杉五社神社遷宮」とあります

この境内社が若杉山周辺にあった5つの神社を遷宮したものなのでしょうか?

蛭子神社、「ひるこ」や「えびす」と読みます。

全国各地に多くある神社です。

日本神話で一番最初に生まれた神?です。

手足が無かった奇形児?として生まれたので流されてしまいます。

生物の「ヒル」に似ているので「蛭子」と名付けられたとも言われています。

ヒルは山や川に生息して人間の血を吸うミミズの仲間です。

 

間違った道を引き返して、あらためてナビで示された方向に行くと今度は林道に入ってしまいました。

対面通行不可です

ナビ的にはこの道の左側の山上に若杉山遺跡があるようですが、標識も無ければ、登山道も無い山肌しかありません。

この道も間違っているようです。

ナビを諦めて若杉山遺跡について書いてあるSNSを探してみました。

何と、直接車では行けないようです。

下調べが十分ではないとこのような目に遭います。

やや広い車道に車を停めて、徒歩で向かいました。(徳島の田舎道は殆どが駐車禁止ではありません)

この角を左手に入って行きます

「祝国遺跡指定」の垂れ幕がありましたが、徳島市方面からは逆方向で見えない位置です。

初めのうちは軽自動車が通れるくらいの道幅がありましたが。

若杉山遺跡への道は「お遍路さん」の道でもあるようです

昭和44年に史跡指定されています

このような道標はありますが、実際の遺跡は2km近く先にあります。

もちろん歩きです。

すぐに道幅が狭くなり、軽自動車も通れない道になりました。

落石でした

もちろん、ここで落石事故に遭っても誰も助けてくれません。

クマも出てきそうな雰囲気です。

1人での行動はお勧めしない場所でした。

道の山側にはこのような巨石がゴロゴロ

天候には恵まれました

汗ばむほどでした。

所々にこのような仏像がありました

これは「舟形丁石」と呼ばれる道標でした

1丁が約109mだそうです。

十二丁とありますが、どこからの十二丁なのでしょうか?

この先、丁の数が増えていくので、車を停めた辺りが出発地かもしれません。

南北朝時代に作られた丁石もあるそうです。

それなりに整備された橋を渡ります

やっとそれらしき場所に着きました。

若杉谷川の河岸です。

下のようなパネルがありました。

辰砂の採掘現場と辰砂の鉱石の写真です

いわゆる露天掘りだったようです。

採掘場所までの坑道もあったのですね。

遺跡までの地図などはありませんでした。

パネルがあるのだから、現地はそれ程遠くではないと思われました。

山側に上って行けばあるだろう、くらいに考えていました。

若杉谷川に簡単な橋が架けられていたので、渡って山側に上りました。

 

上って直ぐにブルーシートで覆われて地面が掘られている場所を見つけました。

石棺のようでもあります?奥は石垣?

掘られている場所に降りてみたい誘惑にかられましたが、自重しました。

遺跡か何かで傷付けでもしたら取り返しがつきません。

山の上を見るとまたしてもブルーシートが見えました。

そして、そこに人影を見つけました。

段々になっている石垣を上って、人影のある場所まで行ってみました。

手入れのされた杉林です。

元々は昭和初期にみかん畑を造成するために山肌を削って石垣を造った場所だそうです。

その際に遺跡があるらしい、という事が分かったそうです。

何やら作業員の方々のようです

近づいてみました。

弥生時代の遺跡だそうです

学者?の方が1名、その作業を手伝う方?が2名でした。

これ幸いと「若杉山遺跡はどのようにして行くのですか?」と聞いてみました。

返事は「土砂崩れで危険なので現在は通行止めになっていますので、行けませんよ」でした。

えっ〜、ここまで来たのに残念無念。

しかし、遺跡まで行けない代わりにとても有益なお話を聞けました。

 

ここ若杉山では辰砂が採れた遺跡だけでなく、弥生時代の集落跡が発見されているのだそうです。

その現地でした。

SNSでアップしない事を条件に、現地で発掘したばかりの弥生時代の土器の破片を見せていただきました。

破片なので、土器ですと言われないと分からないくらいでした。

僕がこのような山中まで来たので「古代史研究の専門家の方ですか?」と疑われてしまいました。

「いいえ、とんでもありません」と答えると今度は「お遍路さんですか?」と言われました。

ここで改めて今来た道がお遍路さんの道だったと再認識しました。

「いいえ、邪馬台国=阿波国(徳島県)説に興味があって徳島近辺を探訪している者です」と答えると「宮ノ前遺跡は知っていますか?」と質問されました。

全く初めての名前だったので、知りませんと答えると「ここから数キロ離れたところに宮ノ前という場所があって、若杉山で採れた辰砂をそこで精製加工していた場所です。最近になってその精製加工していた遺跡が発見されたので、ぜひ行かれると良いですよ」とアドバイスを受けました。

やはり、どんなSNSよりも地元の方の生の声が一番ですね。

大まかな場所を教えて頂きました。

 

その後に「これからどうされるのですか?」と聞かれたので「特に予定は無いのですが徳島市方面に戻って神社巡りを考えています」と答えたところ「太龍寺は行かれたことありますか?」と尋ねられました。

太龍寺?、聞いたこともありませんでした。

「いいえ、行ったことはありませんし、初めて聞く名前です」と答えたところ「ぜひ、行ってみて下さい。お勧めです。弘法大師空海が遣唐使で唐に行く前に中国語を勉強していたと言われている場所です。おそらく、当時は太龍寺に中国人だけでなくユダヤ人やインド人も居たであろう国際的なお寺だったと思います」と返事がありました。

こんなところで「ユダヤ人」を聞くとは夢にも思いませんでした。徳島県人はユダヤ人と日本人の繋がりを知っている方が少なからずいるのですね。

驚くと同時に嬉しくなりました。

 

弘法大師空海は語学の天才で書物で独学で勉強しただけの中国語なのに、遣唐使として現地(初めての遣唐使としての訪問は嵐のせいで予定地よりも随分と南の上海あたりに流されました)に着いて直ぐに会話が出来た、という風に伝聞されていますよね。

すごい人物だった、と思っていました。

これも事実では無かったようです。(司馬遼太郎の小説の中でも空海は中国語会話を習った事も無いのにいきなり現地で会話出来た語学の天才だった、という様に記述されていたと記憶しています。)

若杉山遺跡の近辺の簡単な見取り図

これだけでは遺跡までの道程は判然としません。

部外者は来ない方が良い、というスタンスかもしれません。

 

早速、太龍寺(たいりゅうじ)に向かいます。

この地図では太龍寺まで約2.2km  でした。

予定外のスケジュールでしたが、思い切って往復約4.4kmの行程です。

往復1時間もあれば、という甘い考えでした。

有名なお寺のようで、このような道標が数カ所ありました。

ここから2kmなど訳ないと甘く考えていました

十四丁です

十六丁です

お遍路さんが通う道なのですね

あと1.6km、15分もかからないはず

「太龍寺はこっち」という指で指し示した道標

指し示した指は立体的に彫られたものでした

この辺りから急に険しい山道になりました。

曲がりくねった上にアップダウンがあります。

ストックがあれば良かった、と思う道でした。

こんな山中にもお墓がありました

今も近くに部落的な民家があるのかもしれません。

昨日は雨だったのか地面は完全には乾いていなかったので、少し歩きにくかったです。

二十一丁です

あと1.1km

二十三丁

丁石の下部に寄贈した方の住所と名前が彫られていました。

住所は「大京原村」屋号は「土佐屋」名前は「久右衛門」と読めます。

彫られた文字が明瞭なので、比較的新しい時代の舟形丁石だと思われます。

あと0.7km

「右太龍寺」と読めます

ここから道を折れて太龍寺道に入ります。

太龍寺は21番札所です。

太龍寺道を400m行くと太龍寺でした

お遍路をそのまま行くと平等寺ですが11.3km先でした。

22番札所でしたが、もちろんパスです。

「左鶴林寺」は車を停めたもっと先にあるお寺です

20番札所が鶴林寺でした。

わざわざ囲いがしてある低木です

貴重なものかもしれませんね。

やっと太龍寺の入り口に着きました

太龍寺山門です。

両脇に仁王様がいました。

こちらは裏手のようで、本当の太龍寺はもっと先にありました。

扁額には「舎心山」とあります

正式名称は「舎心山(しゃしんざん)、常住院(じょうじゅういん)、太龍寺(たいりゅうじ)」だそうです。

使い古した「わらじ」を奉納する場所?

とても新品には見えませんが「納経所にあります」と書いてあるので、そちらには新品の健脚わらじが売っているのだと思います。

太龍寺道は険しかったので、わらじが擦り切れてしまい、ここでお遍路さんがわらじを履き替えたのだと思われます。

一般的に「札所」と言っていますが正式名称は「四国霊場第・・番」でした

太龍寺は廿一番です。

車を停めてきた場所が「大井」なので、ここまで片道4.2kmでした

六角経堂は把手を自分で回す輪蔵スタイルではありません

把手がない代わりに自分自身が経堂の周りを回る、スタイルでした。

僕もぐるっと一周して一切経を読んだことになり功徳を積みました。

護摩堂

ここは太龍寺の本堂ではありませんでした。

護摩堂を本堂と勘違いしてお賽銭を弾んでしまいました。

太龍寺の本堂はもっと先でした。

護摩堂の欄間?には龍の彫り物があります。

太龍寺という名前の通り素晴らしい龍の彫り物があります

持仏堂には龍天井

確かに天井に見事な龍が描かれています。

明治34年作、竹村松嶺氏の作品でした

しっかり龍天井を拝んだので僕にも「福徳が与えられた」と思います。

太龍寺は「西の高野」と呼ばれているそうです

たしかにミニ高野山、という感じでした。

 

しばらくすると鐘楼門が見えました。

その手前には急な石階段、もちろんステンレスの手摺りがあったので使わせて頂きました。

石段の右手にあった石碑に目が止まりました

石段手摺を寄贈した方の名前が彫られていました

何気に読んでみると「井川伊勢吉殿」、肩書は「大王製紙株式会社社長」です。

えっ、あの井川氏ですか。

と言っても井川伊勢吉氏ご本人は全く存じあげませんが、お孫さんの井川意高氏が有名です。

井川意高氏はその名の通り創業家出身で2007年、若干42歳で5代目の大王製紙社長に就任していました。

筑駒→東大法学部、というエリートです。

社長在職中にカジノでのバカラ賭博での巨額損失を穴埋めするために子会社から不正に借入を起こし、焦げ付かせた罪で告訴され敗訴し、収監されています。

収監先は栃木県喜連川の刑務所、執行猶予なしの4年の実刑です。

この事件は知っている方も多いと思います。

現在は書籍を執筆したり、YouTuberとしても活躍している方ですね。

元々、頭も良いしお金持ちで人脈も凄いので刑務所暮らしで箔がついた位にしか思えません。

昭和50年5月に建立されています

創業者の井川伊勢吉氏は1990年(平成2年)にご逝去されているので、孫の不祥事は知りません。

草葉の陰で泣いているかもしれません、

大王製紙は元々は愛媛県での創業でした。

四国創業の会社は数多くありますね。

まだ銀杏の実が路面に落ちていました

踏まないように気をつけて石段を登りました。

石段を登り切るとここが本当の太龍寺、という場所に出ました。

相輪橖(そうりんとう)という仏塔です

五重塔などの屋根部分を無くして、柱と頂上部分の相輪を残し4本脚で支えたものです。

下部に経典を納めているそうです。

ロケットのような形ですね。

仏教的にはストゥーパの仲間のようです。

先日訪れたインドネシアのジョグジャカルタのストゥーパ

なんとなくイメージは似ていますね。

この相輪橖は金属製で珍しいようです

上記碑にあるように「日光輪王寺」「比叡山」「太宰府天満宮」「四天王寺」の全てを訪れた事がある僕ですが、1つも記憶にございませんでした。

青銅製の灯明に刻まれた文が目に入りました

濫字一炎 飄法界

意味は「濫字の一炎、乍ちに法界を飄(ただよって)て病を除き」で、弘法大師空海の言葉だそうです。

ロープウェイの駅が見えました

僕は太龍寺道を歩いて来ましたが、ロープウェイを使って来る方が主流のようです。

太龍寺は標高505mにあります。

ここが太龍寺の本堂でした

土足のまま中に入ることが出来ます。

また、回廊のようになっていてぐるりと一周出来ました。

8種類の祈願線香がありました

本当に真言宗は商売気がたっぷりです。

僕的に「先祖供養」「商売繁盛」の2本を選びました

本当は百円玉が2枚しか無かったのが理由ですが。

暗い時間帯ではさぞかし幻想的な光景になると予想されます

凝った彫り物が至るところに

僕には象に見えました。

中国風な印象の彫り物です

境内の一番端にあった求聞持堂

この中に行者が居るのかも?

千日行的な修行の場だと思います。

鎮守社の狛犬

こちらも古そうです

歴史を感じます。

境内には鎮守社もありました

神仏習合です。

 

本堂の右奥には重厚な塔が見えました。

多宝塔です

2層造りで1階が方形、2階は円形、瓦屋根も方形の造りで、平安時代初期から流行した造りです。

多宝如来とお釈迦様の2仏を祀ってあるそうです。

特に真言宗系の寺院に多い建造物だそうです。

この多宝塔は江戸時代末の建立でした

本堂を上から見ました

中興堂というものもありました

いわゆる「中興の祖」を祀っているお堂です

平安時代後期と江戸時代前期にお二方いました。

 

境内の一番奥に位置する大師堂に来ました。

弘法大師がここで中国語を勉強したと言われています

前述しましたが、弘法大師はいきなり中国を喋れたのではなく、遣唐使で派遣されるに当たって、ここで中国人から会話を教わったそうです。

ここ太龍寺は「留学生寮」的存在だったのかもしれません。

中国人に限らず、世界各地から日本に来ていたと思われます。

その中にはユダヤ人やインド人などもいたことでしょう。

想像以上に日本は国際色豊かな地域だったと思われます。(ここまでの記述は若杉山遺跡で出会った方々からのお話と僕の推測を織り交ぜてあります)

日本は遣唐使を派遣して中国から一方的に文化や物産を取り入れるだけでなく、日本文化や日本産の品々を輸出、発信していた事は昨今は自明となっています。

大師堂の説明

中国趣味で造られているそうです。

この時代は遣唐使を遣わすくらいなので、まだまだ中華文明が日本文明?よりも上位だと認識されていたのだと思います。

前殿の彫り物は見事なものです

決して日本的な彫刻には見えません

音楽を奏でる天女に見えます

竹林の7賢人

司馬温公の幼年の逸話、でしょうか?

大師堂の内部は金メッキのシャンデリアのようなものが吊り下がっていました

御廟です

大師堂の更に奥にあります。

「弘法」と書かれた扁額があります。

隔離されていて拝観も近寄ることも出来ません。

 

寺院の至る所で物販の案内があります。

和歌山の高野山もそうでした。

本当に商売熱心な真言宗です

何度も言いますがお金が大好きな真言宗です

久しぶりに見た公衆電話

110,119,118は無料でかけられるのを再確認しました。

ところで118番って何処に繋がるの?

118番は海上保安庁につながる海難事故などの通報電話でした。

 

思わぬ長居した太龍寺を後にして、来た道を急ぎ足で車を停めた場所まで戻ります。

この道標は間違っています

太龍寺から鶴林寺までは6.5kmもあります。

復路も水井橋の先まで4.2kmを歩きました。

途中で若杉山遺跡の脇を通った際に山腹に先ほどの作業員の方々が見えたので「太龍寺に行ってきました。有り難うございました」と叫んだのですが、遠すぎて聞こえなかったみたいです。

車はもちろん駐車禁止ではない場所なので無事でした。

 

先程の若杉山遺跡でお会いした方々に教えて頂いた宮ノ前遺跡に向かいました。

ここもナビでは駄目だったので、農作業中の方に聞いて辿り着きました。

「加茂宮ノ前遺跡」というのが正式名称でした。

平成26年8月の台風による洪水で堤防が決壊したのが発見の遠因でした

本当に偶然の産物ですね。

現地(堤防)に詳細なパネルが掲示されていました。

地図上のが若杉山遺跡、そこから辰砂をの宮ノ前遺跡まで運んで精製したようです

僕が歩いた遍路道(太龍寺道)では山道でしたが、この地図を見ると若杉山から那珂川まで下って、水運で宮ノ前まで運んだと想像できますね。

 

若杉山遺跡近辺には多くの史跡、寺院があります

 

この近辺には弥生時代、古墳時代前期の遺跡が多く発見されています

遺跡後からは「鍛治炉」が発見されています

写真のように辰砂の赤色が残ったままの石臼も発見されています。

これを見つけた時の感動は想像に難くないですね。

地面に開いている穴は掘立て小屋でしょうか?

 

 

2019年に来ていれば発掘現場が目撃できたのですね

現在は埋め立てられています。

一部でもガラス張りで見えるようにすると集客も出来ると思うのですが。

観光地化する予定はないようです。

那珂川は増水すると30m近い水深とは驚きです

那珂川が曲がりくねっている内側に遺跡があります

河川の曲がりくねったいる外側は増水などで「土砂が掘れてしまう」ので、内側に遺跡(作業場)があるのだと思います。

 

結局、現物は見ることが叶いませんでした

辰砂の原石の実物、見たかったなぁ〜。

辰砂から精製した高価な水銀朱を朝鮮半島や中国に輸出していたと考えられています

この貿易を牛耳っていたのが邪馬台国(=阿波国)と思われています。

ですから、比較的小さい国?にも関わらず中国から使節が訪れたり、魏志倭人伝に記載があるのだと理解しています。

阿波国から船で瀬戸内海→関門海峡→玄界灘→朝鮮半島、という航路も邪馬台国が管轄していたと思われます。

航路の途中で九州北部の宗像→大島→沖ノ島、と航路の安全を担っていたのが「宗像3女神です。

天照大神から生まれたとされており、銅鏡を使った「光通信の使い手」です。(これもあくまでも説です)

2000年くらい前の作業道具がこのようにはっきりと残っているのは凄いですね

鍛治炉には赤い水銀朱がはっきり残っています

写真のように辰砂の赤色が残ったままの石臼も発見されています。

これを見つけた時の感動は想像に難くないですね。

辰砂関係以外にも土器や勾玉も出土しています

弥生時代の物証です。

 

加茂宮ノ前遺跡の現状

全て埋め立てられてしまい、遺跡のかけらも感じられません。

河岸工事が目的だったので、遺跡を露わにしたまま残す手段は無かったのだと思います。

往時の辰砂精製作業、その後の朝鮮半島などへの交易に思いを馳せて徳島市内方面に戻ります。

この後は神社巡りの予定です。

 

この後は第二報に続きます。