第2報:今年2回目の阿波国探訪 | kyoritsu-utsunomiyaのブログ

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第1報からの続きです。

アメブロの規定で6000字を超える投稿は一度には掲載出来ないようですので、第2報としました。

 

若杉山遺跡、太龍寺、宮ノ前遺跡の後は同じ徳島県阿南市にある八鉾神社です。

八鉾と書いて「やほこ」と読みます。

年末ということもあって参拝者は僕以外に1名だけ

駐車場もないので道端に停めました。

住所は阿南市長生町宮内です。

「宮」が付く地名は神様に縁がある証拠ですね。

実は写真の鳥居は「二の鳥居」でした。

300mほど手前に一の鳥居があるのだと後から知りました、残念!

八鉾神社は島根県の出雲大社の元宮と言われています

この話、初めて聞いた方も多いと思います。

 

八鉾神社の主祭神は大己貴神(おおなむちのかみ)ですが、別名には大国主神・大国主命・八千矛神・大穴牟遅神・葦原色許男神・宇都志国玉神などがあります。

「八桙」とは「八千矛」の事であり延喜式神名帳(平安時代927年に編纂されたある程度の格式の高い神社リストのようなもので2861社ありました)には「八鉾」という名称がある神社はここ徳島県阿南市の八鉾神社しか記されていません。

即ち、八鉾神(=大己貴命)を祀ってあるのはここだけなので、島根県の出雲大社の本宮と言われています。(少しこじつけ的な感じもしますが)

 

先ず、出雲大社という名称は明治時代になって変更されたものです。

江戸時代までは「杵築(きづきの)大社」とか「杵築神社」と呼ばれていました。

それを明治4年(1871年)に明治政府が出雲大社と名称変更したのです。

「えっ、神社の名前って変更されるものなの?」ですよね。

杵築大社の住所は「島根県出雲市大社町杵築東195 」なので、「出雲大社」に格上げ?してもそれ程の問題は無いのでは?と考えてしまいがちですが「問題大有り」なのです。

上記の「島根県出雲市大社町杵築東195」という住所になったのは2005年3月22日の周辺市町村の合併後なのです。

 

日本郵便のサイトから拝借しました

合併するまでの住所地は「島根県簸川郡大社町杵築東宮内195」なのです。

出雲の「いの字」もありません。

元々は「簸川郡大社町杵築東(ひかわぐんたいしゃまちきづきひがし)」という地名だったのです(こちらも日本郵便から拝借)

出雲大社がある場所は元々の出雲市でもなければ「出雲」という地名が含まれた住所でもなかったのです。

もちろん「出雲」という言葉は昔からあったのですが、調べてみると

 

明治29年(1896年)に「出雲郡(いずもぐん)」「楯縫郡(たてぬいぐん)」「神門郡(かんどぐん)」の3郡の3町44村が合併して「簸川郡(ひかわぐん)」が出来ました。

現在の出雲大社があったのはその内の「神門郡」で、平安時代までの「杵築郷」「伊努郷」「河内郷」の3郷が合併したものです。

元々、出雲郡でも無かったのです。(逆に神門郡の方が神社として由緒正しい印象がありますね)

大正14年(1925年、僕の母の生まれた年です)に簸川郡の中の杵築町と杵築村が合併して大社町が発足しました。

やはり、「出雲」の文字はありません。

昭和16年(1941年)の2月11日(紀元節、現在の建国記念の日です)に今市町・塩冶村・大津村・四纒村・高浜村・川跡村・高松村・古志村・鳶巣村が合併して出雲町が発足しましたが、ここにも杵築や大社町は含まれていません。

同年、昭和16年11月3日(明治節、現在の文化の日です)には市制制度によって出雲町から出雲市になっています。

平成17年(2005年)には佐田町・多伎町・湖陵町・大社町と出雲市、平田市が合併して「出雲市」が誕生しています。

平成23年(2011年)に簸川郡斐川町が出雲市に編入され、簸川郡という名称自体が無くなりました。

 

前述の明治29年に合併された「出雲郡」ですが、明治初期までは「しゅっとうぐん」と呼ばれていました。

何と「いずもぐん」ではなかったのです。

それどころか鎌倉時代や室町時代、戦国時代は「出東郡(しゅっとうぐん)」と言われていたようです。

漢字的にも出雲では無かったのです。

(この辺りの記述はWikipediaを参照しています)

という事で僕が言いたかった事は「杵築大社を出雲大社と名称変更したのは明治政府の思惑があった」です。

徳島県の海側地域を古語で「伊津面(いずも)」と言っていました。

知っている人は知っている、話です。

明治時代になって?記紀神話に無理やり合わせるために出雲大社という名称を作ったのだと思われます。

これについては色々な方が述べているのでこでは省略します。

 

ただし、出雲大社と大分県宇佐市にある宇佐神宮の関連にだけ少し触れさせて下さい。

出雲大社(出雲大社のホームページから引用)

宇佐神宮(2022年6月に訪れました)

この2つだけが日本の神社の中で「二礼四拍手一礼」という独特の参拝形式なのです。(通常の神社は「一礼二拍手一礼」)

出雲大社は元々「杵築大社」、宇佐神宮は大分県宇佐市にありますがその隣は「杵築市」なのです。

「杵築」つながりで何か関係があるのだと僕的には推測していますが、詳細を調べた事はありませんし、確証もありません。

 

ちなみに「簸川郡」の簸川(ひかわ)とは出雲神話で「須佐之男命(すさのおのみこと)が櫛名田比売(くしなだひめ)と結婚する事を条件に八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した場所」である斐伊川(ひいかわ)の事です。

斐伊川は古事記にも「肥河」として記述があります。

斐伊川は中国山地を水源として北に向かい島根県の宍道湖に流れ込みます。

この川に沿って走っているのがJR木次線ですが、「木次」と「杵築」、似ていませんか?

ただし、木次は「きすき」と読みますので「杵築(きづき)」とは読みが違います。

色々謎が深まります。

木次線の終点の「備後落合」駅は広島県です(JR西日本から拝借)

鉄道マニアにとっては有名な路線だそうです。

スイッチバックという独特な走行方法が取られている路線で、2023年に終了してしまいましたが「奥出雲おろち号」という八岐大蛇にちなんだ観光列車も運行されていました。

この地図は「出雲の國・斐伊川サミット」から拝借

荒神谷遺跡(358本もの大量の刀剣が出土、国宝です)も木次線沿いなのですね。

出雲神話の出てくる有名な場所が目白押しなのが木次線でした。

ぜひ一度、訪れてみたい場所です。

 

本当に話が脱線しまくりました。

御祭神は大己貴神(おおなむちのかみ)

大国主神(おおくにぬしのかみ)とか大国主命(おおくにぬしのみこと)という名前の方が有名かもしれません。

「因幡の白兎」の神話で有名な大国主神には子が二人います。

長男の事代主神(ことしろぬしのかみ)と次男の建御名方神(たけみなかたのかみ)です。

次男の建御名方神を祀ってある多祁御奈刀弥神社 (たけみなとみじんじゃ)は前回の徳島訪問(2023/09/07)の際に訪れています。

多祁御奈刀弥神社は長野県にある諏訪大社上社本宮の元宮とされている神社です。

住所地も徳島県名西郡石井町諏訪です。

 

事代主神は式内社(延喜式に載っている神社)の事代主神社として徳島県内では勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られています。

今回はその2つの内の勝浦町の生夷神社にこの後向かう予定です。

拝殿の中を覗くと銅鏡がありました

銅鏡の後ろの紙垂(しで)は高級な金メッキの金属製?でした

八鉾神社の由緒案内

皇太子がこっそりと行啓したと言われています

平成3年、今上天皇の皇太子時代に「中世の海運の研究」の際に訪れているそうです。

石碑も新しいですね。

拝殿と本殿を上から見ました

あまり神社っぽくない外観です。

「依大東亜戦争献納」の石碑

という事は昭和16年以降の建立でしょうか?

「依」というのはどのような意味?

裏手に多数の境内社を見つけました

屋根だけ赤いのも珍しいのでは?

これも境内社?

何やら意味がありそうな配列の石積み

境内社

これは三の鳥居でした

五角形の石柱を見つけました。

地神塔もしくは社日塔と呼ばれるものだそうです。

埴安媛命(はにやすひめのみこと)

土や土壌の神とされており、男神である埴安彦命とペアで語られる神です。

少名彦命(すくなひこのみこと)

大国主神の国造りを手伝った、とされる神です。

大己貴神(おおなむちのかみ)

この方が八鉾神社の主祭神となります。

国津神の代表で、いわゆる大国主神(おおくにぬしのみこと)です。

天照大神だけは直ぐに判読できました

ここでは天照大神も5神のうちの1神なのですね。

現在では「天照大神」は神様中の神様、という印象ですが。

倉稲魂命(うかのみたまのみこと)

穀物、食べ物の神様です。

八鉾神社の隣の敷地には八鉾寺がありました

神仏習合でした。

 

次に向かったのは勝浦町沼江にある生夷神社です。

生夷神社は「いくいじんじゃ」と読みます

事代主神(ことしろぬしのかみ)を祀ってある神社に行く予定ではなかったのですか?ですよね。

本当に日本の神々は同じ神でも様々な名前を持っている神が多いのです。

この事代主神の別名が生夷なのだそうです。

境内は広くありません

「生夷」には「夷(えびす)が生まれた場所」という意味があるそうです。

そこで、「夷=事代主神」はこの地で生まれたと社伝にも記されています。

夷=えびす、ともされています。

えびす様は七福神の恵比寿です。

釣竿と鯛を持っている神様ですよね。

記紀での国譲りの場面では父親である大国主神が天照大神の使者の建御雷神に対して「国譲りの話は長男の事代主神にしてみて下さい。事代主神は釣りをしているので海に行ってみて下さい」という場面があります。

えびす=釣竿を持っている=海で釣りをしている事代主神、という構図(こじつけ?)でしょうか?

もちろん、記紀では国譲りの話は出雲国、今の島根県での話となっていますので、阿波国勝浦での話ではありません。

 

この件も話しだすとキリがないので専門家に任せます。

狛犬は大小2体ずつ

親子狛犬?

大きい方の狛犬には彩色されていました

彩色狛犬は珍しいのでは?

夷(えびす)=事代主神、と書かれている説明碑

父親の大国主神と弟神の建御名方神についても書かれています

本殿は石垣を取り囲んでいるように思えます

石垣には何か特別な意味があるのかも?

屋根瓦をアップしてみた独特の社紋?

三つ葉葵(メノラー?)に鍵フック?

屋根瓦の上にあったのですが何でしょうか?

生夷神社=事代主神を祀っている神社、という事がスッキリしないまま次の目的を目指しました。

 

夷子神社を後にして向かったのは船盡神社です。

船盡神社は「ふなはて」と読みます

船盡とは「船が行ける果て、往来できる限界点」という意味だとされています。

現在では結構な山間部なのですが、往時(縄文時代)はこの地まで海だったのです。

これは歴史的にも実証されており、縄文海進と言われており現在の日本列島はかなりの奥地まで海だった事が分かっています。

茨城県の筑波山も海沿いでした。

 

御祭神は船尽比売尊(ふなはてひめのみこと)

鳥居を過ぎた石段には蛇の抜け殻

久しぶりに見ました。

子供の頃はよく神社の境内や公園で見かけたものでしたが。

この抜け殻をお財布に入れておくとお金が貯まる、と子供の頃に言われていましたが、この話を知っている方いますか?(岩手県だけの迷信だったりして?)

船盡神社の「盡」は御祭神の船尽比売尊の名前では「尽」となっています

調べると「尽」の旧字が「盡」との事でした。

少し怖い顔つきの狛犬

こちらは少しだけユーモラスな狛犬でした

 

ここにも五角柱の地神塔がありました。

埴安媛命(はにやすひめのみこと)

倉稲魂命 (うかのみたまのみこと)

大己貴命(おおなむちのかみ)

天照皇大神

少彦名命(すくひこのなのみこと)

ここが美馬市穴吹町にある「磐境神明神社」に似ていると言われている祠です(拝殿の左奥にあります)

白人神社の奥宮で古代ユダヤの建築様式と言われているのが磐境神明神社です。

船盡神社の社殿は普通の民家のよう

船盡神社の前のバス停は「歯ノ辻神社前」

船盡神社の別名が歯の辻神社でした。

歯痛が治ると地元では言われています。

 

船盡神社の前に鮎喰川があります。

その川向こうに遥拝所としての船盡比売神社がありました。

そちらにも行ってみました。

こちらもバス停「二本木」の前でした

いわゆる遥拝所です

船盡比賣神社は対岸の鮎喰川が増水してしまった際に船盡神社を拝む場所として建立されました。

これが有名な三角柱の中に丸石を置いてある「三つ足鳥居の原型」と言われているものです

三本柱の鳥居は時々見かけます。

 

 

872年の建立でした

椋木の大木がありました

保存樹木に指定されていました

 

椋木の根元には舟形地蔵

変わった形の石灯籠のようなものが立っていました

上下に数センチの穴が空いた石柱が2本立っています

こちらも上下に穴が開いており、こちらの方が古そうです

この上下2つの穴、何の目的で開いているのか謎です。

 

これで本日の神社、遺跡巡りは終了です。

もうすっかり暗くなってきました。

神山町は神々が住む山でした

 

真っ暗な道をレンタカーで徳島空港に向かいます。

徳島空港の阿波踊りもライトアップされています

これから飛行機です。

今日もいい運動になりました

明日から30日まで休み無しです。