インドネシア旅行 2日目 | kyoritsu-utsunomiyaのブログ

kyoritsu-utsunomiyaのブログ

ブログの説明を入力します。

ジョグジャカルタの2日目です。

今日も夕方のフライト時間まで目一杯行動予定です。

10時にガイドさんが迎えに来るまでに朝食を済ませます。

部屋からの眺め

昨日のチェックインは暗くなってからだったので、分かりませんでしたが、こんなに素晴らしい景色でした。

まずは朝食を食べにホテルのレストランに下りました。

レストランは吹き抜けの広い空間でした

昨日の夕食もこのレストランでした。

朝食はビュッフェ、目一杯食べました

朝からナシゴレンも頂きました。

ここのナシゴレンは辛さ加減が絶品です。

コーヒーも本場なので美味しかったです。

外のテラスでも朝食をとる事が出来ましたがインサイドで食べました

食後は腹ごなしにホテルの敷地内を散歩しました。

カーテンのあるガゼボ?

ここにもボロブドゥール遺跡のストューパのオブジェ?

夜用のライティングかもしれません。

レジデンスも備えていました

3棟あるようです。

レジデンスの外観

レジデンスの入り口

どんな方が住むのでしょうか?

1ヶ月数百万円だと思います。

ゴルフ場が隣接していました

マシンジムもありました

プールは子供用もあって広かったです

ハイアット・リージェンシー・ジョグジャカルタの外観

宿泊料金は95ドル、約¥15,000です。

朝食付きでこの内容はコスパ良すぎです。

これで円安でなければ文句無しでしたが。

 

満腹状態で車に乗り込みます。

昨日もお世話になった現地のガイド「丸さん」が迎えに来ていました。

向かった先は墓地、目的はお墓参りです。

えっ、僕のご先祖様のお墓がインドネシアにあるの?

いいえ、ありません。

クスマネガラ英雄墓地が目的です。

墓地に入る前に献花を買いました

日本式の切り花ではなく「花びらだけを詰め込んだ籠」が一般的のようでした。

花の種類はバラが多いそう。

1籠約250円でした。

路上で花籠を作っていました

このような花屋さんが何軒か並んでいました。

日本でもお寺の近くに花屋さんが多いのと同じ理由ですね。

クスマネガラ英雄墓地の正面

実は今日、月曜日は墓地の休日でしたが、ガイドさんの努力で入場させてもらいました。

もちろん、チップは必要でした。 

ここジョグジャカルタでも戦闘が行われたのですね。

戦没者の亡くなった西暦と名前が記された石板

1914名が埋葬されているそうです。

本来は休みだったので裏口から入れてもらいました

思ったよりも広い敷地です

手入れの行き届いている墓地でした

国営だと思います。

6名の日本人戦死者が埋葬されています。

墓地の係の方が付き添ってくれて日本人墓地だけを案内してくれました。

日本人墓地の場所は頭に入っているようでした。

このような感じで花を撒きました

 

当時の独立戦争で亡くなられた日本人に思いを馳せて合掌しました

日本人のお墓には目印として小さいインドネシア国旗が立てられていました。(上の写真)

 

少しインドネシアの歴史について語りますので、お付き合い下さい。

大東亜戦争(アメリカ式に言うと太平洋戦争)に敗戦した日本の支配から解放されたインドネシアは日本敗戦の2日後の1945年8月17日に独立を宣言します。(宣言したのはスカルノ氏とハッタ氏でした)

しかし、旧宗主国のオランダなどの連合軍(主にオランダ軍とイギリス軍、そしてオーストラリア軍)が再植民地化を図り、侵攻してきました。

それに対抗して起きたのがインドネシア独立戦争です。

1945~1949年の4年半に渡って、インドネシア各地で戦闘が行われました。

この戦闘で活躍したのがPETA(郷土防衛義勇軍)です。

Pembela Tanah Airの略で、 日本軍政下の1943年から手薄になった日本軍の補助戦闘部隊として編成されたインドネシア人の軍隊の事です。

日本が敗戦する1945年までの間にジャワ全体で66大団、3万3000人ものインドネシア人が兵士として訓練されたそうです。

ただし、あくまでも日本軍の指揮下での補助兵力という位置付けだったので、インドネシア人の指揮官(参謀)は養成されなかったそうです。

PETAにはのちにインドネシア共和国の第2代大統領となったスハルト氏も在籍していました。

しかし、スハルト氏は元々は宗主国のオランダ東インド軍の軍曹でした。

悪く言えば、植民地支配者の手先だったのです。

しかし、スハルト氏はこの経歴を隠してPETAに在籍していました。

日本敗戦直後の8月19日に連合国側の命令によってPETAは解散させられたのですが,このPETA出身者が反オランダ独立戦争でのインドネシア国軍の中心となりました。

 

ここで本題の日本とインドネシア国軍の関わりです。

インドネシアでは連合軍との戦闘は大東亜戦争初期(開戦後直ぐの1942年2月に油田のあるスマトラ島パレンバンを空挺部隊が落下傘で急襲した攻撃が有名ですね)を除いては殆ど行われていませんでした。

オランダ軍は1942年3月には全面降伏したので、その後は日本軍は無傷だったのです。

そこで、無傷の日本軍を各地に移動させたためにインドネシアの兵力が手薄になってしまい、それを補う目的もあってPETAが結成されました。

インドネシアに残った無傷の日本軍は敗戦によって武器を放棄するはずでしたが、そのまま武器を放棄すること無くインドネシア独立戦争に身を投じた日本兵(正確には元日本兵)が数多く居たのです。

武器を放棄せずに、そのままPETAを中心とするインドネシア国軍に加わったり、放棄すべき武器をインドネシア国軍に渡した(横流し?)日本兵もいたようです。

インドネシアに残ってインドネシア人と一緒に独立戦争を戦った日本兵は約3,000人と言われています。

そのうちの約1,000人が再侵攻してきた連合軍との戦いで戦死しました。

残りの約1,000人はインドネシア独立後に日本へ帰国し、残りの約1,000人がそのままインドネシアに残ったと言われています。

インドネシアに残った元日本兵は帰化し、イスラム教に改宗した方も多かったようです。

当然、現地でインドネシア人女性と結婚した方も少なくなかったようです。

実際、日本兵の墓地でもムスリム(イスラム教信者)となっていた方を少なからず見ました。

この戦死した日本兵の墓地があるのが、今回訪れたクスマネガラ英雄墓地です。

おそらくジョグジャカルタ近郊で戦死した方が葬られています。

このような墓地がインドネシア全土にあります。

ボゴール英雄墓地(ボゴール)、テビチンギ英雄墓地(中部ジャワ)、チレボン英雄墓地(中部ジャワ)、タシクマラヤ英雄墓地(西ジャワ州)、スラバヤ英雄墓地(スラバヤ)、PEMATANG SIANTAR英雄墓地(スマトラ)、マラン英雄墓地(スマトラ)です。

全部を巡ることは出来ません。

このような墓地に葬られている方以外にも密林の奥地で白骨化している遺体も多く残っているそうです。

 

1926年の大学卒業後からインドネシアの反植民地運動に身を挺していたのがスカルノ氏です。その相棒がハッタ氏です。20年以上に渡るインドネシア独立闘争を通して政治的なリーダーとなり、インドネシア共和国の初代大統領となったのがスハルト氏、副大統領となったのがハッタ氏です。

2人の名前は「スカルノ・ハッタ国際空港」としてジャカルタの国際空港の名称にもなっています。

スカルノ氏(Wikipediaから拝借)

最後はクーデター的に地位を追われて失脚しました。

ハッタ氏(Wikipediaから拝借)

政権途中からスカルノ氏との路線の違いから、スカルノ氏を批判することもあったようです。

1956年に政界を引退した後は政治の世界に戻ることはありませんでした。

スカルノ氏と違って清廉潔癖な政治家だったようです。

戦時中の1943年には2人とも、訪日して昭和天皇と会っています。

日本統治下ではありましたが、インドネシア独立を願っていての訪日だったと思います。

 

日本人でスハルト氏の第4夫人となったのが「デヴィ夫人」です。

デヴィ夫人(本名は根本七保子、1940年生まれ)は1962年にスカルノ氏と結婚して1児を儲けています。

現在のデヴィ夫人にはこの写真の面影はありますか?(スカルノ氏61歳、デヴィ夫人22歳、現在の感覚では犯罪的な年齢差です)

スカルノ氏失脚(「9月30日事件」と呼ばれる軍部のクーデターをきっかけにした親共産主義者の弾圧、そして親共産路線だったスカルノ氏の退任とスハルト氏への政権移譲)後に身の危険から日本に戻ってきて、現在はタレント活動をしている方です。

インドネシアでの名前は「ラトナ・サリ・デヴィ」だそうです。

(上記はWikipediaから引用)

それにしてもイスラム圏では一夫多妻(お金持ちだけ?)が認められている男性天国?です。

 

各墓碑には所属していた軍などを表すマークが付いていました。

陸軍の戦没者のマーク

海軍の戦没者のマーク

 

空軍の戦没者のマーク

日本の敗戦直後からインドネシア空軍があったようです。

ガイドさんに何のマークか聞いたのですが失念してしまいました

民間人の戦没者のマーク(だったと思います。間違っていたらごめんなさい)

民間人でも銃をとって独立戦争に参加して亡くなった方がいたのですね。

オランダからの独立戦争ですから、同じインドネシア人として軍人だけに任せておけなかった方々がいたのだと察せられます。

漢字で書かれた日本人戦没者の墓石

ここだけ墓石のスタイルが違っていました。

「大尉」と書かれていたので、軍の階級が上の方は墓石が違っていたのかもしれません。

 

一般の墓地で日本人戦没者に祈りを捧げた後はスディルマン氏のお墓に案内されました。

スディルマンはインドネシア独立戦争においてインドネシア軍の最高司令官であり、インドネシアでは広く尊敬され続けている人物との事です。

スディルマン氏(Wikipediaから拝借)

残念ながらスディルマン氏は独立を果たして間もない1950年1月29日に結核のために亡くなりました。

ジョグジャカルタでの葬儀は大モスクにて開催され、インドネシア国内外含め数々の有力政治家、軍人が出席したそうです。

スディルマン氏のお墓は大理石の床で屋根付きでした

このような姿勢で拝むのがインドネシア式のようです。

1950年1月29日に亡くなっています

1916年生まれなので34歳の短い生涯でした。

1916年は大正5年、僕の父と同い年でした。

スディルマン氏の名前は様々なところに残っています。

ジャカルタ市内には「スディルマン通り」、故郷のスラバヤ市には銅像、昔の紙幣(100ルピア)にも肖像画が描かれています。

何と、市ヶ谷の防衛省の敷地内にもスディルマン氏の銅像があるそうなので、機会があれば訪れてみたいと思います。

墓地のモニュメント

独立戦争のレリーフ

墓地の管理室?にあった写真

左端はスカルノ氏ですね。

念願のクスマネガラ英雄墓地にも参拝して、今回の旅の目的の70%は完了した気分です。

 

この後は夕方のフライト時間までガイドさんお勧めの市内観光です。

「水の王宮」に向かいます。

ジョグジャカルタは2日間この車でした

トヨタのSUVですが海外専用車のようでした。

価格は300万円弱、インドネシアでは5年ローンで購入するのが普通だそうです。

3人乗りのバイクもよく見かけました

バイクはHONDAが圧倒的に多く、ほぼ100%日本企業の現地生産車との事でした。

ここが「水の王宮」の入り口

王宮は月曜日休みでしたが「水の王宮」は営業していました。

王宮と水の王宮は通路で繋がっています。

外国人は別料金でインドネシア人の倍でした

日本人の感覚ではあり得ませんよね。

でも海外ではこの手の区別(差別?)はよくある事です。

ここでも入場はリストバンド

この建物が王が居る場所です

江戸城の大奥的な場所でしょうか?

この格子窓からプールにいる複数の女性の中から、気に入った女性を指名したそうです

現代ならばセクハラどころではなく、人身売買レベルの話です。

王宮の女性の更衣室

簡素でプライバシー無しですね。

王様専用のプール

ここで選んだ女性と水浴びしていたらしいです。

ここが王宮の寝室

ここも簡素すぎませんか?

雰囲気もないですよね?

往時はもっと煌びやかだったと思います。

 

これは卵の殻

このデコレーション、インドネシアで流行っているそうです。

水の王宮を見学した後はマーケットに向かう予定でしたが、雨が降ってきて、大雨になりました。

雨のせいで観光用の馬車もお休みです

雨に濡れて寒そうな馬達。

仕方ないので観光は中止して、ジョグジャカルタの街中のショッピングモールに連れて行ってもらいました。

PLAZA MALIOBOROというモールです

地元の方専用らしく、観光客は皆無でした。

吹き抜けの4階建でした

地元民で賑わっていました。

ランチはご当地マックにトライ

チーズバーガーセットを注文

このセットで400円くらいでした。

マクドナルドのチーズバーガーは可もなく不可もなく

何年ぶりかで口にしました。

このショッピングモール内にはレストランも数多く入店しています。

RAMENYA、一部に日本語が記載されています

日系のお店なのでしょうか?

こちらも日系のお店のようでした

どこに行っても豚肉はありません。

ハラル食が徹底されていました。

インドネシアでは「豚カツ」は食べることが出来ないのです。

カツ丼やカツカレーは鶏肉が殆どでした。

まだまだ雨は降り止みません

一時のスコールではないようです。

アーケードで雨宿り中にチェスをしている地元民

 

ショッピングモールに居ても仕方ないので、観光は諦めて早めに空港に連れて行ってもらう事にしました。

シルバーマン、有名らしいです

交差点にいて小銭を貰っている人でした。

誰がこんな人にお金をあげるの?とお思いでしょうが結構な数の人が雨の中をわざわざ窓ガラスを開けて、小銭をあげていました。

運転席脇にそれ専用の小銭ボックスがある車も見かけました。

ガイドさんに尋ねると「イスラム教の教え」なのだそうです。

この感覚、日本人にはピンときませんね。

 

猛スピードで走って空港に着きました。

ジョグジャカルタ国際空港

マレーシアやシンガポールからは直行便もあります。

比較的新しく出来た空港でしたが、ジョグジャカルタの中心部からは車で1時間近く離れた不便な場所でした。

16:50発のガルーダ航空を予約していました

フライトまで時間があったのでマッサージを受ける事にしました。

フットマッサージの60分コースです

最初は気持ちよかったのですが

足底は痛さで辛くなってきました

「もっとソフトに」とリクエストしました。

マッサージを終えて搭乗口に行くと

なんと搭乗予定便は遅延していました

1時間前には何もアナウンスがなかったのに。

ジャカルタからの到着が遅れている、との事でした。

結局、1時間以上の遅れで出発です。

結構小さい飛行機でした

機内からのジャカルタの夜景

ジャカルタ空港に着いた頃にはもう真っ暗でした。

ジャカルタ空港の通路にあった顔写真パネル

インドネシア建国などに功績のあった方々だと思われます。

真ん中の一際大きい写真パネルは初代大統領スカルノ氏(左側)と初代副大統領ハッタ氏(右側)だと思います。

空港の名前も「スカルノ・ハッタ国際空港」です。

空港からジャカルタ市内のホテルまで車で向かいます

空港で予約していたSilver Birdタクシーが中々見つからずに時間をロスってしまいました。

ジャカルタ名物の「大渋滞」を体験しました。

何しろ「信号機」が殆どないのです。

1時間近くかけてやっと着きました

グランド・ハイアット・ジャカルタ、結構な高級ホテルです。

ジャカルタ市内のど真ん中、という立地です。

ホテルの中の和食屋さんでまずはビール

インドネシアの殆どの地域はイスラム教なのでお酒も原則禁止です。(バリ島だけはヒンドゥー教なので、お酒OKです)

ただし、ホテル内だけはお酒は大丈夫のようでした。

ワインやウィスキーなどもメニューにあります。

しゃぶしゃぶを頼みました

ジャカルタで日本と同じ味やサービスを求めていた訳ではありませんが、お肉は「日本が一番」と実感しました。

でも、決して不味い牛肉ではありません。

お腹ぺこぺこなので、締めのうどんまで完食です。

ホテルのバーラウンジではライブのコーラスが聞こえました

さすがに今日も疲れ果てていたので、バーに立ち寄る元気はありません。

シャワーを浴びてぐっすり眠ります。

明日もホテルまでガイドさんが迎えに来て「墓参り」の予定です。