高流(三等三角点 芦野163.57m)五所川原市金木町、序でに岩木山 | 独り言ちの山暦

独り言ちの山暦

「風の又三郎、又三郎、早く此さ飛んで来!」「この頂で赤道から北極までの大循環の自慢話を聴かせてくれ。」

 

2024.6.9~2024.9.13。

「津軽の旅は、五月、六月に限る」と太宰治は書いた。

太宰の小説「津軽」を読んでから幾年が経ったのだろう。

何時かはゆっくりと「津軽」、「太宰への思慕]の旅をしたいと長年考えていた。

そんな想いが突如として叶えられた。

この春の飲み会で「何処かへ短旅行でもしないか」の話が

トントン拍子で「津軽」の旅へと実現することとなった。

気の置けない仲間との4人旅である。

だが、太宰三昧とはなるまい。

そこは「津軽」の舞台である土地だけを巡るわけにはいかない。

青森県の観光地。十和田湖、八甲田山、白神山地、弘前城、竜飛埼、大間埼、恐山など

組み合わせた旅となった。

私としては太宰への想い入れもあり是非、小説に出てくる「高流」と称する

金木町の2百メートル足らずの、なだらかな小山を行ってみたかった。、

 

その序でに岩木山の頂も踏めればと考えていた。

苫小牧港からフェリーで八戸港に着き、十和田湖の湖畔を散策し船遊覧。

次は奥入瀬渓流を散策し八甲田山へと向かった。

雷雲が来襲する中、ロープウェイを使い八甲田の鼻だけを味わった。

白神山地へ向かう途中、弘前で昼食。

KUBさんの息子さんが弘前大時代に通ったというラーメン店を

推奨されたこともあって、煮干しラーメンを食した。

煮干しスープラーメンは北海道では味わえない美味しいラーメンだった。

白神山地への途中ではマムシにも出遭う。

白神山地では「マムシ、ヤマガラシに注意」の看板のある散策路はパスした。

随分と淡白な白神山地となってしまった。

この日は嶽温泉泊。

翌日は岩木山へ。

岩木山スカイラインを車でで8合目まで。生憎リフトはメンテナンスのため運休。

山への撞着ない2人には車で待機してもらい、KAWAさんとガスの中、頂上

を目指した。

頂上は矢張りガスの中。眺望は得られなかったが落胆は無かった。

往復1時間45分。待機してもらった2人に感謝。

岩木山下山後、弘前公園へ。

このころには気温も上昇。暑い中、弘前城を見学。

その後、金木町へと向かう。

太宰治記念館「斜陽館」。太宰の実家は矢張り趣があった。

2階へと登ると太宰が横たわって本を読んだ長椅子があった。何となく太宰がそこに

いる感覚があった。

斜陽館の後は、待望の「高流」を目指した。

事前に調べてきたが「高流」という山は無い。津軽に出てくる情報をもとに

三等三角点 芦野がその場所と誰何した。

太宰がこの場所を訪れたのは1944年6月のことである。

それから80年が経っている。記念館で「高流」を尋ねても明確な答えを得られなかった。

向かった麓に養護施設があった。そこの職員の方に尋ねたが山は分からない。

だが高流には山菜採りで入ると言う。そこはこの裏側であると。

「津軽」のなかでも、この辺はワラビ、ウド、アザミ、タケノコなど山菜の宝庫とある。

間違いがない。ここが高流だ。登ろうと決めた。

そこから15分ほどで三角点についた。

笹薮、木々が生茂り見通しは利かない三角点であった。

三角点の名残のように標木が朽ちていた。

太宰は「見通しはなかなかよい。津軽平野全部、隅から隅まで見渡す事が

出来ると言いたいくらいのものであった」と書いている。

ここであろうか?

80年の月日が過ぎたのだ。

変貌には充分すぎる時間であろう、と納得した。

今は津軽富士は全く見ることはできないが太宰はこの場所から、津軽富士の山容にうっと

りしてしまった場所なのだ。

太宰が「したたるほど、真蒼で、富士山よりもっと女らしく、十二単衣の裾を

・・・決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとおるくらいの嬋娟たる美女

である。」と記した津軽富士を高流を下り麓から眺め満足とした。

金木町から小泊をへて龍飛埼へ。

小泊には「たけと太宰の像」が建っていた。小泊に降り立って暫しは

往時を慕ってみたいと思ったが時間が押していることから車中から像を

眺め終えた。

龍飛埼。猛烈な風を期待?していたが、反して穏やかな埼であった。

ここで一泊。

龍飛埼からは三厩、今別を経て蟹田へ。

ここも「津軽」の舞台である。ここにも太宰像。ただ蟹田では確認していないが

多分に存在するだろう。

蟹田で太宰と津軽とはお別れ。フェリーで下北半島に渡った。

下北半島。

大間、大間埼へ。

大間では大間マグロのマグロ丼を昼食とした。

今年のマグロ漁は6月11日から解禁となったというが残念ながら

一本のマグロも上がらなかったらしい。

それもあってマグロ丼のマグロは昨年のものであるが、大間であればそれで良しとした。

最終は恐山。

この日は気温が上がった。暑い中、境内を廻った。

霊場なのだろうが来世を今世と結びつける霊感は湧かなかった。

喉が渇いて冷たいビールが無性に飲みたくなったが

それは無理なことと諦めた。諦念感がせめての救いであろうか。

長いようで本当は短い「みちのくの旅」を八戸港から苫小牧港へのフェリーで

終えた。

かなり草臥れた男4人。妻が「そんな4人が何事もなく無事に帰ってこられた

ことがなによりの喜びで収穫だよね」と。

旅という非日常性は、確かに自分を鼓舞してくれたり慰めてくれたけど

日常性を突破できるものではない。

太宰がこの津軽を旅したのは35歳だった。その倍近く生きた我々は「命あらば

また他日。元気で行こう。絶望するな。では失敬」と太宰の辞を同じくして別れた。

そしてまた、非日常性の旅へと挑戦しよう、と思いを共有したのだった。