薔薇色の辣韮。 | 境界線型録

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I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 午後三時半前ころ、のこのこと稽古場入りすると、見つけない茶帯のオヤジがいた。猫も杓子も袴の時代だというのに、今どき茶帯とは殊勝なやつがあるものだ、とどんな間抜け面かとくと拝もうと目を凝らしたが、見ッ、見えないッ。いや、見えてはいるが、識別不可能の視覚であり、そこに存在するのが亀なのか、カモノハシなのかすらわからない。重度の老眼症に陥っているせいなのは明らかである。
 いかにしかめ面をして目を凝らしても殊勝な茶帯オヤジの顔が識別できないので、手にしていた酒袋製の巾着から老眼鏡を取りだそうとしたのだが、なんと、家に忘れてきてしまったのであった。しまったぁーッと愕然としたが、もはや後の祭りである。
 すでに稽古は始まっていたので、いつまでも巾着に手を突っこんで目を凝らしているヒマは無かった。遅刻常習犯なので、ちょっとは慌てている風を装わなくては体裁が整わない。本性は間抜けな狐猿車夫であったとしても、ひと度稽古場へ足を踏みいれれば謎の合気マンというスーパーヒーローに変身しなくてはならないのだ。そして、合気なる摩訶不思議の前に呆然自失している老若男女、というか、ほとんどは老男ばかりという為体になってしまったが、彼ら老男たちの夢を叶えるべく、この身を好き放題に掴ませたり突かせたりしてウキウキさせて差し上げなければならないのである。いかに己が疲れていようとも、哀しくても切なくても嬉しくても愉しくても、他者のためにウキウキさせるのが、ご当地ヒーローのみなさんと同様に、稽古場における合気マンの役目なのだ。自ら望んでそうなったわけではないが、なんとなくそうなってしまったからには、私は合気マンとしての務めを全うするしかないと覚悟しているのである。それこそが、惣角先生へのご恩返しだと信じて。

 ま、もう眠いから手短にしよう。
 という感じで稽古場入りし、老眼鏡がないことに慌てたが、二十センチくらいまで接近して目を凝らすと、やはり、その茶帯オヤジに見覚えがあることに気がついた。
 「あああ、」と私が呻ると、茶帯オヤジが「ううう、」と呻き、私にしがみついてきた。
 「うううう、梅太郎さーん、お久し振りでーす」
 「おおおお、久しぶりじゃのう。うんうん、懐かしいぞ。なんとなく、懐かしいぞ。いやいや、ホントに、懐かしい」
 と懐かしく感じたが、どうも、誰だったか、名前が思いだせない。
 もちろん、私は内心、とてもビビっていた。このオヤジの固有名詞を口にしなければならないシチュエーションが、今に訪れはしないか、と。
 われわれは近しく肩を抱いたりしながら旧交を温めたが、私は必死に固有名詞が登場せざるを得ないことがないように言葉の道行きに考えを巡らせ、もう汗だくになった。
 ああ、誰だったっけ。もちろん顔はよく知っていて、確かに懐かしく、いつであったか、親しく手合わせしていたのは間違いないが、どうにも名前が思いだせない。

 そうして好ましくない冷や汗をひと掻きしたとき、どこからか一人の老人が現れ、「梅太郎さん、例のアレですけど」と声をかけられた。
 「あああ、例のアレですか」
 私は例のアレがなんのアレなのか知るわけないが、嬉々として応えた。
 「ええ、先月と今月の分で千四百円なんです」
 その老人の対応で、また施設使用料を滞納していたことに気がついたが、このおかげでアイデアが浮かんだ。
 「あ、復帰した人は、まさか、いきなり支払うべしなんてことはないでしょうね」
 と、率直な老人は、「あ、Qさんはもちろん、今日から戻ったんですから、無しですよォ」
 オッケー、老ベイビー、愛してるぜッと私は、内心叫んだのであった。
 そしてすかさず、懐かしの茶帯オヤジに語りかけた。
 「Qさん、そうなんだって。いやあ、良かった。弟弟子には、もう会いましたか。まだなの、じゃあ、顔を見せてあげてくださいよ、喜びますから。さあ、一緒に、合気の世界で遊びましょ」
 私は、そうしてQさんを引っぱって、弟弟子たちが遊んでいるところへ乱入していったのであった。

 旧知であった人の固有名詞を忘れているというのは、私には当たり前のことなので自分では驚かないが、相手はビックリしかねないので、たいへん気を使うのである。なにしろ脳の容量が二百五十六キロバイトくらいしか無いから、なにもかも片っ端から忘れてしまう。なので、たまに、こういう思いがけない事件に遭遇する。
 それは避けられないから仕方ないとして、Qさん(仮名/牡/五十代前半くらい)が復帰したのは感動的な事件であった。心底、嬉しかった。
 確か十年くらい前、お子さんと一緒に入門され、お子さんと共に消えていった。そういう人は多いので、いつしか記憶からデリートされ他の情報が上書きされていたのだと思うが、ちょっと関心がありそうなので、私はよく手合わせしていた記憶がある。ただお子さんの付き添いという感じなら軽くご案内はしても、あまり手合わせはしない。私はケチなので時間が惜しいからだ。そんなヒマがあるなら、木刀でもふりふりしている方が役に立つ。が、ちょっと数寄者っぽいと感じると、ケロッと尻軽になって、一緒にウキウキしましょ、と遊びに行く。その、ウキウキ友だちの一人と感じていたから、戻って来てくれて嬉しくてならない。
 また一人、合気オタク育成に手を付けられる、と思うと、未来が、漬けたばかりの辣韮のように薔薇色に輝いてくる。
 合気の明日は、薔薇色の辣韮だ。
 辣韮は暫く口にしていなかったが、食いたくなった。
 では、この辺で、床入りしよう。
 辣韮に抱かれる夢でも見ながら。