さて、行き先は。 | 境界線型録

境界線型録

I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 「いッ、いッ、いせッ、はーッ、ハクシュンッ」
 老婦人は、笑顔でくしゃみをした。
 私が驚いたのは当然である。
 「いッ、伊勢ですかッ。それはまたッ」
 「うーん、はーッ、ハクシュン。ごめんなさい、このところ花粉がひどくて」
 「ああ、花粉好きの人はみなさんそうおっしゃいますね」
 「んんん、好きじゃないのよ、嫌いなの。なにか話をしようと息を吸うと、途端にハクションと出るので、本当に困ります」
 「けれど、奥様のはハクシュンと、みみず野の御婦人だけあってお上品なものですよ」
 「あら、いやだわ、オホホホ」
 「ではありますが、伊勢はいささか遠すぎます。この車ではガスが保ちません」
 「違うの、ハクシュンではなくて、ハラなんですの。イセハラ」
 ようやく私は得心できた。お伊勢詣りは一度もしたことがなく、ついでに神宮を訪ねるのも悪くないと一瞬思ったが、あちらの方のガススタンドは知らない。メーターがどこまで跳ね上がるか、という興味も湧くが、行けば帰りは明日になる。ここは丁重に断るしかないと落胆しかけたが、伊勢原ならばなんの問題もない。その程度の位置ならば、短い客ばかりだったので、ガスは充分足りる。丹沢山地の東南端にまします聖山大山の麓、カモノハシの小さな駅からはだいたい三十キロ弱か、歩いてでも行けない距離ではない。もちろん私は歩いてなど行かないが、渋谷辺りへ行くよりも近く、早くて、安くて、美味いではないか。
 「なんだ、なら問題ない。どうぞ大船に乗ったつもりで、ひと眠りしていてくださいな。日暮れ前には着きますから」
 さらに詳しく目的地を聞きだすと、某大学病院であることが判明した。
 やや遠くにある大学病院。時は日暮れ近い午後四時ころ。この界隈では高級な宅地として知られているみみず野から花粉症にも拘わらず小走りしてきた老婦人。詳しい事情は分からなかったが、どう推測してものっぴきならない事情があるに違いなかった。
 兎にも角にも、急ごう、と私は決心して、もっとも近くにある東名高速の入り口目指してアクセルを踏みこんだ。

 午後四時半近くなっても、まだ空に明るみが残っていたが、厚木辺りに至ると、にわかに黒ずんだ雨雲が広がり出した。
 大山の姿ははっきり見え、その中腹辺りにいかにも水気をたっぷり含んでいそうな平たい雲がかかり、大山の南東側から丹沢山地に沿うように北へ広がっていた。
 東名高速を厚木で下り国道二四六号に出て、愛甲石田の駅を通過すると、もう伊勢原は近い。
 老婦人は疲れていたようで、高速を走行する間、ウトウトしていた。
 私は、なぜそんなところへこんな時間に行くのかという理由を訊ねたいと思っていて、二度ほど「どうして、こんな時間に伊勢原の病院へ行くのですか?」と声をかけたが、返答がなかった。ルームミラーで窺い見ると、老婦人は頭を垂れて寝息を立てているようで、問い倦ねていた。
 伊勢原に入ると、フロントガラスに水が流れだした。雨粒は目に付かないが、ガラスに水の膜が張るようになった。糠雨らしかった。
 「雨、かしら」
 老婦人の眠気が覚めたらしく、声をかけてきた。
 「ええ。今し方降りだしました。オーヤン・ヒーヒーさんの小糠雨という感じかな」
 「まあ、ヒーヒーではないですよ。降っているようには見えないけど、空は暗いのね」
 「昔から大山は雨降山とか言うそうですよ。けれど、ひどくはなりそうに無い」
 「だと良いわ。ああ、もう手術が始まっているかしら」
 老婦人は、唐突にそんなことを口にした。
 「手術、ですか」
 「ええ、弟が倒れて。くも膜下出血というのかしら、突然倒れて、救急車で運ばれたんですって。あ、連絡しなくては」
 そう言うと老婦人は持っていたバッグからスマートホンを取りだして操作した。
 「ああ、つながらない。あのこ、大丈夫かしら」
 独り言のはずだから、私は口を挟まなかった。糠雨は強くないといっても、薄膜のようになって視界が悪くなるので運転を慎重にする必要もあった。
 「くも膜下って、ずいぶん難しいのよね」
 これははっきり私に向けられた問いに感じた。
 「どうなんでしょう。よくわかりませんが、弟さんですか」
 「ええ、八つ下の弟なの。肉親はもう二人きりだから、心配で」
 「それは心配ですね。もうすぐ着きますから」
 「嫁がついてるんですけど、外国の人なの。日本語は少し話せるけど、微妙なことはわからないかもしれなくて」
 「ああ、だから急いでるんですか」
 「心細くて可哀相でしょう。こんなお婆さんでは頼りないけど、いる方がマシでしょう」
 「それは、とても心強いでしょう。あ、ほら、見えた。あそこが病院ですよ」
 暗い雲の下に堂々たる白亜の建物が現れた。間近に見れば灰色っぽい壁だったが、雨雲の縁から差しこむ光が後光のようになり、燦々と輝いて見えた。
 「良い病院のようですよ。大丈夫、きっと」
 老婦人もその建物の偉容に、少し安堵したようで、「そうね、きっと大丈夫ね」と応えた。

 老婦人を降ろすと、帰りは高速を使わず、国道をのんびり辿ることにした。その道は、昔は大山街道と呼ばれたらしいが、今は都心の青山のあっちの方から沼津の方まで延びている。カモノハシは通らないが、頻繁に通る道である。便利な道だが、混雑しているので、普段、私は避けている。
 けれど、雨降山を湿らせる雲が、どの辺で切れるのか、その境界を跨ぎたくなって、下道で帰る気になった。
 海老名の辺りまでは快適に走れたが、次第に混雑し、不快になってきたので、ちょろっと横道に逸れ、適当に見知らぬ道を辿ったせいで、カモノハシに戻ったときはとっぷり日が暮れ、もう夜の休憩を取らないとヤバい時刻になっていた。
 うっかりドライブを愉しみすぎて、ロングに当たったのに、寂しい売り上げに終わった一日であった。
 と、明け休みの本日、憶えていたので続きを記した。あえて記すほどのことではないけれど、西方へのロングは珍しいので記念に。