境界線型録

境界線型録

I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 春の終わり頃から毎日NHKラジオを聞くようになり、陶子とできてしまったのは、コロナのせいだ。陶子の名誉のために断っておくが、陶子とまったくコロナは関係ない。私がコロナに接するのは、三十分とか一時間ごとにチョロロロリーンと流されるニュースであって、そこに陶子はいないのである。名前は憶えていないが、数名の男と女が関わっている。けれど、そこに陶子はいないのだ。ただ、午後になってコロナのことを知ろうとすると、どうしても、竹内陶子のなんとかカフェという空間になってしまい、陶子と関係せざるを得ないだけである。
 そういう事情で陶子と私はいつしか親密な仲になってしまったが、どうしたことか私は彼女のことについて、まったく興味が涌かず、いつも、ただコロナのことばかり気にしている。我ながら、なんと薄情なのだろうかと哀しくなるが、陶子は気にもせず、朗らかに私に語りかけてくれるのだ。ラジオというメディアの大きな特質である。テレビというのはワイワイと喧しいばかりだけど、ラジオという媒体は、こういう点で非常に優れていて、中波ラジオを耳にしたのは四十数年ぶりであり、しかも、NHKなどに接触するのはまったく不本意だが、三十分か一時間ごとにニュースを流すのはそれしかないようなので致し方ない。テレビなら絶対目にしないが、ラジオは断然NHKが優れている。さっさとNHKテレビを解体し、いや、放送法を破棄し、天下の国営放送としてNHKラジオを放送界の最高権威に君臨させるべきである。しかも、三十分か一時間に一回のニュースには、きっとお天気情報と全国の交通情報が付属しているのだ。こんなにも濃密な情報をわれわれ国民に提供してくれる電波媒体は他にない。交通情報など、どこで事故や工事が発生しているか、ハラハラドキドキの連続である。そして、興奮がクライマックスになる頃、陶子が爽やかに囁きかけてくるのだ。この小さな胸が打ち震え、陶子の声によって、十何キロもの東名の渋滞から救いだしてくれるのだ。陶子と私の関係が、急速に深まってしまったのも無理がないことであろう。

 そこで、私はランプシェードを作る決意をした。
 あ、話が吹っ飛んでしまった。
 つまり、コロナのニュースを聞くためにラジオを聞いていたが、先日、アマゾンで電球を探していて、明暗センサー付き電球を二個買ってしまい、昨日到着したため、どこかに付けようと考えたが、とりあえず百均で買ってあった麻紐でシェードを拵えながら考えようと考えたのである。あれ、説明になっていないかな。
 なにはともあれ、今日の午後ロードも退屈だったから、ランプシェードもひとまず形にでき、後は完全にボンドが固まるであろう明日まで乾し、そうだ、階段にしようと決意した。暗くなると勝手に点灯する電球を玄関に付けるために購入したが、二個セットだったので、もう一個をどこに付けようかと悩んでいたのだ。陶子に相談したかったが、陶子は聞く耳を待たなかった。孤独に陥った私は黙々とシェードを作り、やっぱ階段だよなと思ったのであった。暗くなると、階段がパッと明るくなれば、この孤独もいくらか癒されるに違いないから。

 そして、癒された私は、コロナのことを考えた。
 今日は四百何人だそうで、なかなか安定している。私の予想では、夏に五百人くらいになり、秋は千人規模としていたが、検査数があまり伸びないようで、落ち着いている。東京都の検査数はこの前耳にした情報では八千六百くらいらしかったが、今日のはどのくらいかわからない。が、かなり逼迫した状況らしく、百合子ちゃんは呑み屋に時短要請すると断言したらしい。これは、けっこうなことである。午後十時で終わりにしてもあまり有効ではないと思うけど、怠惰な車夫としてはありがたい。昨夜などまた酔っ払いに捕まり、ロングに近いセミロングをやらされ、帰宅が午前二時近くなってしまったから、永遠に時短しろッと思うのだ。もっとも、良い酔っ払いで、おかげで大幅ノルマ越えという偉業も達成したから憎めないが。
 けれど、良い酔っ払いの身のためを思うと、もっと時短した方が良いだろう。午後十時などと言わず、午後八時で良い。八時にもなると私はそろそろ就寝準備で忙しくなる。明日は休みだから今夜はのんびりしているが、心の奥底はなんとなく忙しいのだ。すでに二合くらい焼酎を体内に摂取してしまったが、どうも不足のようなので、もう少し入れるべきか、とても悩んだり、心が安まらないのである。
 おや、コロナのことなど、なにも考えていないか。

 そのように、シェード作りの他はなにもしない一日であったことを記そうと思ったのであった。
 もう眠くなってきたから、そういうことにして終わりたい。なにか記そうと考えていたが、喪失してしまった。そういえば、後期高齢期の医療費負担を二割にしようという案がどうのと言っていたっけ。経済状況を細かく見るなら、五割でも六割でもかまいはしないだろう。その細かく見ることを行政ができないから、公平平等という言い訳で財政を悪化させているのだから、どんどん細かくして、取れるところからどんどん奪えば良い。
 コロナのおかげで、国家の平和のために、そういう事業が必要らしいと気がつければ悪くないような気がする、と言うようなことを記そうかなと思ったような気がしたが、忘れてしまった。





 この十年くらい年賀状すら出していない。おかげでだいぶ減ったが、未だに送ってくれる人もいる。送られて知らんふりするのは失礼すぎるから、たいてい年明けにご挨拶表現をササッと拵えて返信する。それ以前は毎年暮れになるとまめに作り、大晦日前にはなんとか投函していたが、だんだん面倒臭くなったためだ。仕事柄ちょっとヘンなもの期待されるので、あれこれ考える必要がある。言葉でやるよりも画像でやる方が私的にはラクだから、いつも写真を撮り一筆付けた。それをけっこう楽しみにしているらしいことを言われたりするから、内心はずっと前から止めたかったが、なかなか止められなかった。けれど、十年ほど前に、もう忘れたがなにかの機会があり、考えることを止め、父が他界した年には、能動的年賀状送付を放棄した。
 もちろん、今でもくださった人たちには、なるべく年明けに返信しているが、生存確認程度のものになった。
 そういう性格なので、封書に便箋など何枚か収められた手紙は大の苦手である。文を書くのは嫌いな方ではないが、手紙はどうにも好かない。電話があるんだから電話すりゃ良いじゃん、と思う。もっとも、自分は電話嫌いでもあり誰にも滅多に電話しないが。
 と言ってコミュニケーションが嫌いなわけではなく、話せばうるさい。常に要らないことを語りまくりヒンシュクを買う。
 これが、手紙を毛嫌いする、ひとつの要因かも知れない、と、さっき思った。

 誰と話をしても、ほぼ意見が合わない。なぜか私はいつでも異端的になり孤立しやすい。と言って別に対立はしない。意見など異なって当たり前だから私はなんとも思わないが、そうではない人が多く、わざわざ境界線を引くために話をしているように感じたりもする。こいつはこっち側か、あっち側か、と。そんなことのために話をするのは面倒だから自分はやらないが、どうもそうでない人が多い。この辺が大衆の性質として、大昔から平和をゲットできずにいる大きな理由のひとつだろうと思うが、二十一世紀になっても多数派だろう。われらが地球を代表する人類であるアメリカ国民を眺めてもそんな感じだし。日本人も似たようなものだろう。
 手紙というのは、語る言葉よりも練られがちだから、より色濃く人性のようなものが出る。基本的に言葉というのはそういう性質があり、ヒギンズ教授ではないが、お里が知れるものだ。私は二十四歳から代筆に手を染めてきたためカメレオン的に誤魔化す技術を身につけているが、いかな技術を持ってしても言葉の群れがかもしだす人性の気配は誤魔化しようがない。
 それがイヤ、あるいは恐いから、手紙が嫌い、と言うわけでもない。自分の人性をさらけだすことに嫌悪はあまりなく、むしろ私などはヌーディストさながらに平気でスッポンポンになったりする。
 では、なぜ、手紙がイヤなのか、と考えた。

 大きな理由のひとつとしては、漢字が書けないことか。ワープロなら言葉の音と意味さえ知っていれば、過去に目にしたことがある難解な漢字でもバシッと変換して文章に埋め込むことができる。私は二十五歳からワードプロセッサーを使っているが、それが最大の理由である。漢字を憶えなくてすむじゃんかッと。今日も手紙の返事を書こうとして、文脈的にどうしても気鬱という言葉を用いたかったが、いくら頑張っても鬱が書けず、ペンを放り出したのだ。
 次は、字が汚い、という事情がある。周りの人々は私が書いた字を見て、クールだと言ったりするが、自分で見る限りクルクルである。手書き代筆の時は丸文字風にやっていたが、私用文はかなりツンツンした筆致で、筆順は滅茶苦茶、バランスもなにも関係ねぇという悪筆そのものである。ツンツンして大正期のお爺さんが書き殴ったような文字だから、現代人にはクールに見えるのかも知れないが、悪魔的文字である。
 そういう文字しか書けないため、きれい事も書けない。口でならきれい事くらい語るのはわけもないが、自分の文字としてこの世に定着させるのは困難すぎる。きれい事が書けないと、どうしても悪口三昧になる。
 これが、私が手紙を毛嫌いする主な事情と言って良いだろう。

 今日は、午後ロードがつまらないやつだったので、眺めながら、先日来てしまった手紙への返事書きを試みたが、挫折した。文はけっこう記した。が、カメレオンの術は使えず、ツンツンと角だらけのイグアナ文になりかねない気がして一向に筆が進まなかった。二時間格闘したが、お返事文として定着させることはできず、筆を置いた。ボールペンだけど。
 諦め、二十年物の梅酒を大さじ一杯くらい呑んでから、いつものように焼酎に取りかかった。一口グビッとやり、湯船に水を張り、また台所部屋へ戻ってグビッとやり、換気扇の下にドッカと腰を落とし煙草に火を点け、晩の献立の製造手順を考えた。参考までに記しておくと、今晩はやけにトマトが勝るミートソーススパゲティーとスペアリブと温野菜の大盛りプレートである。
 かくして、今日も、返信できなかった。
 ああ、変身したい、と思った。あのなんとも重い手紙に復讐する文をサラサラ書ける生きものに変身し、バシッと返信してしまいたい。
 しかし、当分できそうにない。
 朝目覚めたら甲虫になっていたりしたくはないが、変身したい。もう歳だから無理だと思うが、合気の秘密をもうちょっと解明すれば、もしかすると変身できるかも知れない。なんの因果もないことだが、そんな気もする。
 ま、それはさておき、そろそろ年賀状も復活させようかな、と考えたりするが、せっかく離脱できたのに勿体ない気もして、もの凄く悩ましい。
 残り三十数日、いつまでも白いままの便箋を怨めしく睨みつつ、ゆっくり悩んで過ごそうか。





 三時間しか眠れなかったが、稽古は愉しく目が醒めた。大したことはやらなかったが、いつも大したことはやらないし、いつでも大したことなどできないので、なんか、愉しいのだ。
 が、寝惚け眼で三十数分遅刻して稽古場に紛れこむと、何者かが演武みたいなことをやっていた。なんだッ、なにしてやがるッとビビった。稽古場の真ん中で演武者たちがモゾモゾし、下座に十数名の門下たちが整然と正座して並び、モゾモゾを真摯な眼差しで見つめていた。そして、上座へ目を向けると、館長と特別ご招待者の某先生が貴賓席にどっしりと腰を下ろし、真摯な眼差しでモゾモゾを見つめていたのだった。
 しッ、しまったぁーーーッと、いつものように思った。
 もちろん、私はそういう素振りは微塵も見せず、ゴキブリよりも機敏に演武配置の一画に進み、ずっと昔からそこに居たような顔をして陣取った。
 そして、演武が終わると、空かさず貴賓席へ駈けつけ、ゲストの先生に肥をかけた。
 いや、肥をかけては大変なことになる。声である。
 「いやあ、先日は失礼。まさかこんなことになるとは知らなくて、今日が演武会だって言っちゃったんでしてね。人も少なくて、まいりましたね」
 「いやいや、自分も楽しみにしてましたからね。しっかり拝見させていただけました」
 と言うことで、ホッと安堵の息を吐いた。

 先月の初め頃だと思うが、先生が小さな駅でなにかやっていて、たまたま私は車夫に化けて小さな駅のプールに入り、久しぶりだったので挨拶しに行き、来月の二十二日に演武会をやるから見てね、と告げていたのだったが、コロナ再燃で演武会不可となった。私はそのことをすっかり忘れ果てていて、先生に中止の連絡をしなかったため、先生が駈けつけてくださる事態となったのであった。
 ふらりと現れた先生を目にして、館長がバシッと機転を利かせ、急遽ミニマム演武会を開催する運びとなったのであった。これぞ、合気でもある。
 かくして、初めは冷や汗を流したが、後半はいつも通りの稽古となり、誰に虐められることもなく、愉しく過ごせたのであった。
 昨日は、東京陽性三百越えが連発したためか、ヒマでバブル崩壊後初のどん底景気となった。嘘だが、実際、なにもやることがなく、車の中でジッとしていることが多かった。もちろん、午後には武内陶子ちゃんのなんとかカフェという放送を聞くのだけど、土曜日で、陶子がいなかった。陶子がいない午後のNHKなど、黄身を欠いた茹でた孫である。NHKに、土曜など要らない。一年中月曜日にしろッと思うのである。
 で、なにが言いたかったのか忘れたから、夜ゴハンは肉豆腐にした話に変えようか。

 材料は事前に整えていたので、稽古後に帰宅し、後は作るだけだった。献立は、すでに明かした通り、肉豆腐一本。ホントはサイドの材料も用意してあったが、面倒臭くなったため製造を中止した。メインさえあれば、ゴハンは食えるのである。しかも、心がけ次第では、瞬く間に牛丼化できる肉豆腐なのだ。サイドなどクソ喰らえである。
 気合充実し、市販濃縮ツユの素を水で数倍に希釈していると、携帯電話がブルルルルと騒いだ。ソフトバンク屋の請求額確定メールだろうとたかを括ったが、お知らせランプが青ではなく赤だった。メールなら青で、赤は音声通話希望の報せである。だッ、誰じゃッと二つ折りされた筐体をパカッと開くと、小さなディスプレイに老母の名が出現し、ししししッ、しまったぁーッと思った。別にしまったと思うほどのことはなかったが、なんとなく、いつも思うのだ。

 「もずもず」と出ると、「ああ、梅太郎かい」と言う。
 「んむ、梅太郎専用の携帯電話だからな。たいてい、他の奴は出ない」
 「そうなのかい、それは大変だねぇ。で、まだ借金してないのか」
 「そんなものはしない。おれは電話するババアの次に借金が嫌いなんだ」
 「そうかい、それは良かった、安心したよ。ところで、あれは何時だったかねぇ」
 と言うことで、かなり回りくどい歴史を突然語りだすのがいつものことなので、私は「だから、なんの用だよ」と本質に迫ろうとするが、なかなか核心には至らない。これは、なんでも良いから話をしたい老母と、どうでも良い退屈な話をしたくない私の決定的な格差のため、永遠に埋まることがない。
 そして、数分もの気が遠くなるような無駄話の後、唐突に真実が私の中耳に叩きつけられた。
 「んでね、仙台に電話したら、○○カッちゃんが死んだって言うんだよ」
 私は一瞬耳を疑い、間もなく絶句した。
 母方の従兄弟の長兄である。
 絶句した理由は、あまりにも度重なる血縁の他界のせいだ。
 昨年、敬愛する父方の従兄弟が死んだ。強烈な衝撃を受けた。
 先日、その一周忌の時、私と同い年の彼の弟から、もう一人、父方の従兄弟の死を報され、絶句した。
 二人の死者は、たぶん昭和十五年頃生まれ、同い年くらいのはずだった。
 八十歳を越え、死しても不思議はない歳だけど、立て続けに逝かないでくれよ、と思った。
 父の死後、翌年、なぜか子瓶が後を追い、その翌年には長姉が逝った。気分が疲れ果て、私は他者とほとんど関わる気になれず、仕事も辞めたくなり、辞めることにした。父と姉のことだけではなく、その前には妻の方の身内が毎年毎年この世を去っていた。この十数年の間、毎年、身のまわりの誰かが死んでいった。葬儀など、うんざりである。誰とも関わらなければ、誰の死にも無縁でいられるから、私は誰とも付き合いたくないと思っている。けれど、毎年新たに付き合ってしまうものができてしまう。社会生活って、本当にイヤだと思う。こうして、いずれ死に顔を拝まされる奴と知り合わざるを得ないなんて、ご免被りたい。
 けれど、私が産まれる前から出会いが約束されてしまっていた相手だと、避けることもできない。

 「カッちゃんは、何歳だった」
 私が問うと、老母は「七十かな」と呟き、すぐ続けて訂正した。
 「否、昭和十七年の生まれだったから、わたしの七つ下だよ」
 「八十六のゴウツク婆は生き存えて、七十九の若者は死ぬのか」
 「ホントにねぇ。あ、誰がゴウツク婆なんだよッ」
 老母と私は、それから、長々と、死者たちの話をした。
 亡霊たちも、こっそり参加していたかも知れない。
 私は、昨日三時間しか寝ておらず、突発演武会の誤魔化し言い訳をしたりして、疲れ果てていた。まだ肉豆腐もできていなかった。
 「死んだものはしかたないな。線香を上げに行くのも来年だろうから、正月のことでも考えろよ。宴会はどっちでやる」
 もう死者の話に飽きたので、亡父の墓参り後の宴会に切り替えた。
 「どっちでも良いよ。こっちだとおまえはお酒が呑めないから、そっちでやろうか。高級お節が、安いから注文しておこうか」
 「こっちでもそっちでも、泊まらなきゃ酒は呑めないだろ。来るのはおれだけじゃないんだから」
 「ああ、そうか。みんな車だしねぇ。泊まるならうちの方かねぇ」
 「んー、猫もいるからな。ま、小姉と相談しろよ。おれは肉豆腐で忙しいから、もう切るぞ」
 「なんだい、肉豆腐って」
 ツーツーツー。
 と言うことで、話は終わった。
 私は、もう、肉豆腐を作りたくてならなかったのだ。まだ風呂にも入っていなかったし、豆腐は焼き豆腐を使うにしても、ある程度煮こまないと味が滲みないからだ。白菜と春菊も入れたかったが、切っていなかった。豆腐の水も抜いていなかった。白滝も、切っていなかった。出汁からやるのはもう無理だと思っていたが、麺汁にするにせよ、どれほど砂糖を加え、希釈率をいかにするか、なにも決めていなかった。
 やるべきことが、多かった。
 死者のことなど考えているゆとりは、なかったのだ。
 死者よりも、今夜の肉豆腐のことが、私は気になっていたのだ。
 電話を切ると、一心に肉豆腐を作った。
 市販の麺汁利用だったが、そこそこ美味くなり、白飯も胃に流しこみすぎて腹がくっつくなった。
 死した従兄弟の家で、しょっちゅうゴハンを食べていたことを思い出した。カッちゃんは、いつも、もっと食えと言い、私は、腹がくっついと逃げた。
 私が幼稚園の頃、気管支炎で死にかけて二週間くらい入院していると、カッちゃんが毎日、仕事の帰りに見舞いに来た。きっと、蜜豆の缶詰や少年画報やプラモデルを持ってきてくれた。従兄弟と言っても、カッちゃんは私の十七歳年上で、すでに成人だった。退院数日前には、フェアレディのリモコン付きプラモデルをくれた。病室では作り上げられず、家に帰ってから作り上げた記憶がある。
 カッちゃんは在いちばんの美男で、東映に応募して合格したが、親に止められて断念し、町の消防員になった。町の女たちは、みんなカッちゃんに惚れていた。そのくらいハンサムだった。が、やさではなく、柔道の猛者で、ケンカも強かった。うちを襲撃した暴漢を体落としで投げ倒したこともあった。モテるので浮ついた話が多く奥さんは苦労したそうだけど、しっかり添い遂げた。いい男だった。会ったのは父の葬儀の夜が、最後で、若い日の美貌は完全に喪失されていたが、私が幼児のころのカッちゃんのままだった。宮城県を出ることなく、生きて死んだが、たぶん東京に出ていたなら、近藤くんよりも派手な浮き名を流したのではないかと思う。
 今日こそは、手紙に返信したいと考えていたが、カッちゃんの噂話だけで気力が失せた。
 あの世では、老けた姿のままなのだろうか。
 せめて、あの若かりし日の姿に戻って、好き放題に遊び呆けることを許され給え、などと祈るのであった。