桜とおそうじオバちゃん。 | 境界線型録

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I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 もはや記憶が定かではないが、高校一年か二年生の夏ころだったか。前に何度も記したことがあると思うが、私はティンパンアレイのライブに行った。場所は下北沢のどこかだったような気がする。その頃どこかのラジオ局でやっていた中山ラビちゃんの番組で、たまにライブへのご招待をやっていて、その後の細野さんはなにをしているのだろうと気になって応募したら、なんと、大当たりしたのでノコノコ出かけていったのであった。
 このライブはわが半生においてもっとも衝撃的なものなので憶えている。
 順の前後は忘れたが、前座で登場したのが、矢野顕子ちゃんと憂歌団だった。どちらも関東圏ではほぼデビューライブという感じで、とても初々しかったが、私はノックアウトされてしまい、細野さんのことを忘れてしまったほどだった。顕子ちゃんの丘を越えても強烈だったが、勘太郎さんのギターにまいってしまった。それまではトム・ウェイツが最高にブルーだと信奉していたけれど、憂歌団こそ蒼いのだッと宗旨替えさせられたのである。
 最初のころのジャブ程度に放たれたおそうじオバちゃんという一曲で、ノックアウトされた。
 ライブ後の帰路は、もうフラフラで、つい井の頭線の中でフラダンスを踊ってしまったほどである。
 翌日には朝一でパチンコ屋に走り、一台打ち止めして隣にあったレコード屋さんへ駈け込み、憂歌団の第一段LPを買った。走って家へ戻りレコードを鑑賞しつつ、コピーバンドを作ろうと決意し、中学生の時に長姉からもらったモーリスのフォークギターをガシャガシャと掻き鳴らした。
 そういう経緯があり、私にとっておそうじオバちゃんという存在は、特別である。

 合気道の稽古は、たいてい市が建設した立派な体育館の地下の武道場でやる。数百畳の畳敷きで、柔道の公式試合が二面でできるほどの広さがある。うらぶれた町道場としては、たいそう贅沢な稽古環境である。
 もちろん全館禁煙になっているが、未だにちゃんと喫煙所も用意されている充実ぶりで気に入っている。とは言っても、このご時世だから、野晒しの駐車場の片隅に灰皿が置かれているだけだが。
 それでもニコ中のわれわれには有難く、私にとって希少な憩いの場となっている。
 稽古の半ばになると、私は決まって稽古場を抜けだし、灰皿の元へ向かう。たいてい、弟弟子と一緒である。
 二人で一服していると、必ず灰皿を掃除するオバちゃんが、蒼いバケツと雑巾を手にして来る。
 「すみませんね」とわれわれに声をかけ、灰皿の蓋を開け、水に塗れた大量の吸い殻をバケツに空ける。
 弟弟子は「ああ、いつもありがとうございます」と声をかける。私も、「どうも」と言う。
 オバちゃんは、こちらを向くことはないが、「いいえ」と呟き、自分のやるべきことを淡々とやる。その横顔は、けっこう美しく、たぶん若いころはかなりの美貌の持ち主だったのではないかと思われる。歳は、七十代半ばだろうか。弟弟子より、わずかに若い、というくらいだろうと思う。
 彼女を目にすると、私はいつも決まって、憂歌団のおそうじオバちゃんと出会ったときの衝撃を思い出す。この女性にも、夢はあるのだろうな、と。たぶん、可愛いパンティーを履いてみたいというようなことではないと思うが、なにかしら、夢があるのだろう、と。どんな夢なのか、想像もできないが、きっとあるに違いない、と思う。

 先の日曜日、稽古に行くと、体育館の周りは染井吉野が満開で、たいへんな賑わいになっていた。というか、そうであろうことはわかっていたので、私はアビラッシュではなくアドラッシュで行った。幸いなことに、町が主催する桜祭りは先週開催されて終わっていたので、駐輪場が閉鎖されてはいないとわかっていたからだ。
 一時間半ほど稽古すると、私は喫煙所へ行った。弟弟子はいま帰省していて不在なので、一人だった。
 まだまだ花見の人が多かったが、喫煙所には私一人きりだった。花と煙草の煙が混濁し私の視界は真っ白だった。
 白い靄の向こうに、一人の老女が現れた。蒼いバケツと雑巾を手にしていた。
 いつもはこちらが先に声をかけるが、意外にも、彼女の方が先に声を発した。
 「こんにちは」
 私はちょっと驚き、うろたえて応えた。
 「こんちわに」
 おそうじオバちゃんは一瞬キョトンとした。が、すぐ無表情になり、いつも通り、やるべきことをやった。
 しかし、いつもと違っていた。
 「すごい、人」
 そう、呟いた。
 私はやはりちょっと驚いていたが、呼応した。
 「本当に、すごい人出ですね。桜もビックリでしょう」
 オバちゃんは、クスッと笑った。
 「桜祭りは、静かでしたけどね」
 「ああ、先週、やったんですか」
 「ええ、やってましたよ。ご近所の方だけ来てたみたい」
 「アハハハ、ここの桜祭りはいつもズレてますね」
 「ええ、ふふふ」オバちゃんはおかしくてたまらないという風に笑いを抑えて息を洩らしてから、ハァーとひと息つき、「この人出だと、トイレがたいへんで」と呟き、眉を顰めた。
 「トイレですか」
 「そうなの。ここはトイレが少ないでしょ。一日中混み合っていて、お掃除もできないの」
 私は、あ、おそうじオバちゃんだ、と思った。この美しい女性も、もはや老女ではあるけれど、憂歌団が告発していたように、クソに塗れて二千円なのだろうか、と。
 もちろん、そんな思いに囚われ続けていたわけではない。
 それだけで、対話は終わり、オバちゃんは、吸い殻を詰めたバケツを手に水場の方へ去って行った。
 私は、彼女の背を眺め。快い余韻に浸っていた。その喫煙所での対話が、とても心地良かったのだ。おそうじオバちゃんと対話したのは、初めてだった。それも、彼女の方から、声をかけてくれたのである。
 私は逆軟派された老爺のように浮かれていた。
 彼女の夢が、可愛いパンティーを履くことではなく、なにか、もうちょっとエレガントなことであることを祈りながら、私は喫煙所を後にした。