今年の年齢遡行。 | 境界線型録

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I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 昨日も午前様になって眠かったが、首が硬いので稽古をやって解そうとヨンクで出かけた。すると武道場がある施設の駐車場が満車で、車列ができていた。休みの日にまで車列を目にするのは不快だが並ぶしかないか、と最後列の方へ向かうと、途中に稽古仲間がいたので、横に停まって挨拶を交わした。どのくらい待ってるのか問うと、二十分も待っているのだという。これでは当分入れそうにないと判断し、彼に「私は休みにする」と告げて家へ戻った。
 というのは、午後から長女が家に来ていて、夜は雛祭のためか、寿司御膳にするというので、稽古も早めに切り上げるつもりだったから。
 家族で食事するというのは珍しくないが、自宅でというのは久しぶりだった。次女は二人目の私の孫を出産したばかりで来られず長女だけだが、やはり気分的に良いものである。妻のライン経由で、孫たちからも写メのようなものが来た。
 午後四時には、いいちこを水道水で割って呑み、風呂に漬かった。また寒が戻り冷えていた躰が、ゆっくり溶けていった。
 もう、六十年も経ったのか、と思った。
 ふーん、と思い、記憶を遡った。

 一昨年までは気ままな代筆屋として生きていたが、暮れに突然辞める決意をした。それ以上続ける意欲がなくなったためで、仕事が厭になったわけではないし、どうにかすれば続けられなくもなかったはずだけれど、辞めた。いちばんの理由は、客を作るのが面倒臭くなったことだろうか。客と付き合うのも厭になったという面もあるか。簡単にいえば、バカバカしくなったということか。
 それはけれど、この十数年間ずっと感じていたことで、十年前に辞めていても不思議ではない。たまたま仲の良い客の要請があったから続けていただけで、仕事の性質も自分好みだったというだけに過ぎない。イヤではないことをやって生活できるのだからありがたいものではあった。が、イヤなこともやらざるを得なくなりそうになったので、辞めたともいえるかもしれない。
 いや、仕事にはイヤなこともつきものなので、別にそれを厭うことはないが、代筆は自分が好きなことだから、尚のこと、それとは関係の無いイヤなことをやるのが厭でならないということだろう。車夫になってもイヤなことを大量にやらざるを得ないが、イヤだけれど、やるのは厭ではない。むしろ愉しい面もある。イヤだなと思いつつやるけれど、やれば意外に面白かったりもする。元々人間と接するのが好きな方なので、接客はなにひとつ苦にならない。そういうのは客をこちらの手中にしてしまえば、むしろ愉しいもので、代筆と同じくらい面白い。これは高校生のころから感じていて、もしかすると自分は客商売に向いていたのかもという気もする。
 が、人間と接するのが好きだけれど、なぜか人間嫌いでもあり、その点では代筆屋は好適な職だった。接客など気にすることなく、ひたすら好きなように作文して「これが良いよ」と提示すると、客から先生扱いされたりする。ほんとうに気楽な商売だった。そういう点では、車夫は対極にある仕事とも感じる。

 四十代はそんな感じで先生扱いされ呑気に生きていたが、三十代はいくらか気が張っていた。営業などしなくても仕事がどこからか運ばれてきたが、すべての案件に必ず結果を出す必要があったから安倍総理並みに緊張していたことだろう。失敗は許されなかったから。そのころは営業行為が、成功という結果を出すことで、それを目にしたどこかの誰かが仕事を運んでくるような状況だった。成果を数年上げ続けると、あとは名前だけで営業になるような世界だから、四十代五十代前半はラクだったのだろう。
 しかし、二十代はかなりきつく、後半はたいして苦労もなかったが、前半は冷や汗と脂汗をかき通しだったかな。もちろん、そんな素振りは見せずポーカーフェイスだったけれど、内心は汗みどろだった気がする。無理やり弟子入りして業界に紛れこんだので、初めは右も左もわからなかったが、わかっている振りをする必要があった。専門用語や業界用語がチンプンカンプンでも、わかっている振りをしなければならなかった。客や業界人と話していると胸の奥は冷や汗脂汗ドロドロだったが、顔は余裕綽々でなければならなかった。そして、そのあとに急いで専門誌や辞書などで言葉の意味を調べる、という日々だった。このため打ち合わせをしても、私だけ理解がきっと一日遅れだったはず。ただ、代筆などはオリエンの後は、プレゼンまで少なくても一週間くらい猶予があるのが当然だったから、ほとんど問題なかった。

 そのころはユニークなものをだせば、指名が獲得された。代筆などは陳腐なフレーズを流用するものが多いので、私はオリジナルのレトリックにこだわり、それまで使われたことがないと感じる表現を基本として提示していた。これには無理があるけれど、当時はまだいくらか可能だったと思う。例えば、当時はファッション流通ではバーゲンというイベントが定着しだしたばかりで、今と似たようなお得さ、つまり安さをアピールするレトリックが多かったが、私が最初に担当した某ファッション流通ものの時は、安いことを売りにせず、消費欲を満足させられるというレトリックを作った。これは最初のヒットで、先輩たちも真似した。なぜかというと、安さをアピールするよりオシャレな表現が可能だったからである。たぶん、欲張れるという表現をキャッチに導入したのは私が最初だったと思う。こういうのはちょっとした視点の転換に気がつけば誰でも思い付くことだけど、なかなか気がつかないらしく、多くの代筆屋は安さをいかにアピールするか頭を悩ませていただろう。売る側の視点で見ていると、どうしてもそうなる。が、買う側の視点に立ってみれば、安いということは、いつもより欲張れるということなんだと気がつく。欲望の開放機会がここある、という切り口にすると、消費者の言葉で語った方がすんなり客の心臓に届く。何のことはない視点の転換だけど、それまでほとんど用いられていなかったのだとすると、画期的な転換だろうと当時は自画自賛していた。
 言葉の面白さの深みに填まっていったのがそのころで、どちらかというと晩熟だろう。たまたま読書経験が多く語彙にも困らなかったので代筆屋になるのは簡単だったが、言葉というものの不可思議さなどに気がつきだしたのは二十代半ばだった。言葉は本当に優しくありがたく便利な存在だが、かなりヤバい魔力もあり、冷血で残虐なものにもあっさりなってしまう。
 もの凄い一例が、それまで優しい言葉ばかりかけていた人が、あるとき突然、冷たく痛く傷つける言葉を発するように豹変したりすることとかか。この作用は実に恐ろしく、下手すると人間を死に追いやることもある。言葉とはそういう性質を持つものだ、という自覚がないと、ヤバい事態に陥ったりもする。人を生かすも殺すも自在、という性質が言葉にはある。

 文を読むのは好きで、小学生のころから読書愛好家だったが、書くのは嫌いな方だった。点丸の打ち方すら知らないまま十八年くらい生きていたので、記述式の試験になるとビビっていた。が、図々しいので点丸なしに適当つらつら書いていた。ほとんどの国語教師は私の作文を批難していたが、高校の現国の教師一人だけ、文法だの記述のルールよりも言葉そのものを読める人がいて、詩の鑑賞みたいな授業になると私に感想を求めた。彼がいなければ文章に関わろうなどと思わなかったかも知れないので、恩人の一人かも知れない。
 もう一人面白かった教師がいて、大学の哲学の教授だったが、試験になると私は彼が作った設問とほとんど関係の無いことを答案用紙に記して提出していたのに、ずっとAA以上の成績をつけた。最後の試験の成績はAAAという大盤振る舞いだった。ヘンな人だなと思っていたけど、この人の存在もけっこう支えになっていたような気がしなくもない。確か藤井さんといったかな。ゼミの教授の名は忘れたが、この人の名はうっすらと憶えている。

 もう夜が更けてしまったのでそろそろ終わりにしないと。明日も出動なので。
 この六十年を遡り、できれば母の子宮にまで戻ってみようと書きだしたが、無理らしい。高が知れた六十年ではあれ、三十年を遡るだけでも、時間も言葉も足りなくなる。経験というのは、そのくらい多くの情緒を頭の中に蓄積していくらしい。
 経験というのは、とりあえず生きている限り蓄積され続けるのだから、この先、まだまだ溜まっていく。とすると、それを言葉にするなんて、気が遠くなるようでもある。熟慮して言葉に数多の思いを凝縮できれば文は短くできなくもないが、時間はうんざりするくらい必要になることだろう。
 しかも、そのうんざりするくらいの時間は、また新たな経験として蓄積されていく。
 死するときまで、それが延々と続く。
 それが、人生である。
 なんて思うと、なんというとりとめが無いものなのだろう、と恐ろしくなる。
 今夜も妻娘に告げたが、私は百十六歳まで生きてしまう予定なので、まだ半分しか来ていないことになる。ゲゲッと思う。百六年くらいに短縮しておこうか、と思ったり。
 ともあれ、経験するというのは愉しいもので、意図的に愉しもうとすると、ドラッグ並みの中毒性を有するかも知れない。不快なことでも、次はどんな不快があるんだろう、と興味が湧いてしまい、ワクワクしたりする。もちろん、愉快なことなら、倍々ゲームで愉快になったりもするだろう。
 そうして、興味津々で時を過ごすなら、百年くらいあっという間に経ってしまうのかも知れない。
 金さん銀さんの愉しそうな笑い顔を思い出すと、確かに、そんなことが生きることなのかも、とも思う。