冷たくても春。 | 境界線型録

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I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 終電近く、一人の若い女を拾った。すでに店じまいしたい時刻だったが、ワンメーター地獄による営業不振のため、あと一人、あと一人と続けるうちに、日付を越えそうになっていた。雨天にしては客が少なく、辛うじてノルマに届いたが、小さな駅にもしも待ち人があれば最後に運ぼうと考えて立ち寄った。そこに若い女がぽつねんと立っていたのだった。
 静かに車を停めて後席ドアを開くと、無言で乗ってきた。俯いたままで、ちっと不気味な印象を受けた。見た目は普通に麗しく、深夜に遊び歩いているようには見えなかった。なにかの事情で仕事が遅くなってしまい、思いの外に帰宅が遅くなってしまったのだろう。水涸れした菜の花みたいに草臥れているのだろうか、あるいは何か、悲しい出来事でもあったのだろうか。
 「どちらへ」
 「……ブブ北」
 「ブブ北。ああ、ドブ北ですか」
 女の返答が聞こえないので後席を向くと、項垂れた首を少しだけ深く沈ませた。
 「わかりました。ドブ北ですね」
 どうも陰気で気分はのらないが、小さな駅にしてはやや遠目の目的地なので、内心喜んだ。これで、なんとかノルマ超え平均値を少しだけ上げられる、と。鬱屈していそうなのはこの女性だけであり、私には関係の無いことだ。ドブ北ならわが家も近く地理に精通しているし、店じまいの帰途でもある。カモノハシ園ほどではないが、ラストランには都合の良い仕事だ。
 その後は口を閉ざしてアクセルを踏み、ステアリングを繰った。
 こんな時、さっさと始末したくて急ぎがちだが、私はあえて道交法を遵守して走った。もちろんいつでも遵守しているが、いつもより多めに遵守したのである。なんかおかしいが、遵守したのだ。しかも、旅客運送という業務に照らして最高度のサービスに努め、杜撰な舗装がもたらす衝撃が女性を不快にしないように気を配り、ブレーキショックも加速の負荷も与えない走行に集中した。

 わが家の隣町の中央通りを静かに走っていると、女が何か、呟いた。
 なんと言ったのか、聞き取れなかったので、「なんですか」と問うと、「突き当たりを右へ、右の方へ、お願いします」と応えた。
 それは、はっきり聞き取れる、明瞭な音声だった。甘みのある高音で、鼓膜が快く振動した。陰気な女の声にしては朗らかな感じなのが不思議で、ルームミラーを覗くと、女もミラー越しにこちらを見つめているようだったので驚いた。
 「右の方です。左ではなくて」
 そう、また言って、女は首を上げ、愛好を崩した。
 「あ、右ですね。左じゃなくて」
 「はい」
 「オッケー、わかりました」
 そう答えると、女がくすりと笑った。
 突き当たりを右へ折れれば、ドブ北住宅の東側一帯への入り口が続く。十メートルおきくらいに左ー折れる路地があり、住人はそのどれかへと呑みこまれていく。公道は街路灯が少なく暗いが、左の路地の奥は少しだけ明るい。家が近づいた安心感が、女の気分も少し明るくしたのかも知れないと思った。
 「結局、上がらなかったですね」
 どの路地を曲がるかわからないので徐行していると、女がそんなことを言った。何のことかわからなかった。
 「上がらなかった、ですか」
 「ええ、夜には上がると言っていたのに」
 女の声はもう完全に朗らかで、口元も頬も緩んでいた。
 「ああ、雨か。そうですね。日中にはチラッと明るくなったけど、上がらなかったですね。まだ暫くは降り続くんでしょう」
 「イヤな、雨」
 「ええ、イヤな雨ですね。空気も冷たいから、雨も冷たい」
 「ほんとうに、冷たい雨」
 「まあ、でも、この前の雨よりは春めいてるでしょ。せっかく開いた梅を散らせるような雨だけど、春を呼んでいる雨でもありますからね」
 フフと女は笑い、「あ、次のところで大丈夫です」と言った。
 また大丈夫かよ、と思ったが、若い女は料金を支払うと、「どうもありがとうございました。おやすみなさい」と告げて、明るい路地の奥へ軽やかに歩いて行った。
 私は、とりあえず、どこかの暗闇で一服して帰ろうと、街路灯の乏しい暗夜の細い公道を走った。