明日のニーズは。 | 境界線型録

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I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 今日も妻の足となって運んだが、病院ではなくバイク屋さん。以前記したか憶えていないが、手術入院の前に妻とオタマが乗用車に接触するという事故があり、オタマを修理に出してある。なぜか仲良くなった店主さんが、ちょっと説明したいので来てくれと言うので赴いたのである。話は修理の概要と大雑把な見積もりと、過失割合に関することだった。主に気にしていたのは過失割合らしく、相手の保険会社がこんなことを言っていると報告してもらった。
 状況からすると相手が九でこちらが一という割合が妥当だが、突然相手の方が自分は七であっちは三くらいだと言い出したという。で、保険屋の方では自社の客なので無碍にもできず、八:二くらいでの結着を目指したいとのことらしかった。私はそういう事情に疎いのでどうでも良いけど、ひとつ引っかかったことがあった。
 相手の保険屋によると、相手は自分の車が停止しているところに、妻とオタマが衝突してきた、と説明しているらしかった。実際は、妻とオタマがのほほんと走っていた道に、側道に駐まっていた相手の車がいきなり飛びだしてきて、車の側面にぶつかった、という状況である。それは警察に確かめれば明らかなので、相手が嘘を吐きだしたとわかる。
 これを耳にして唖然とした。こんな些末なことでも、人間というものは平気で前言撤回して嘘を吐くものなんだな、と。普通に正直にやっても大した損失などない事故なのに、いくらかでも得したくて嘘を吐く気になったのだろうか。別に過剰な要求などしていないし、警察は人身事故扱いにもできるという事故だったが、軽い打撲程度なので相手が可哀想だから妻は人身にはしないことにしたというのに、なんとまあ、みみっちい無様な相手にぶつかってしまったものだな、と虚しくなった。ほんとうに経済カルトは、損得勘定にばかり長けていて人間としての恥ということを知らないのでイヤになる。ま、これまでも何度も経験してきたことだけど、久しぶりに凄くみみっちい事態に接したので、記念に記録したのだった。

 長閑な三連休は終わり、また明日から営業戦線に復帰しなくてはならない。もう業務の煩雑さにも慣れ、道は未だ知らないところだらけだけれど、図々しくなってきて、客が案内して当然のような空気を醸しだす話法も自然に用いるようになった。曲がるところを間違えると、客の方が「ああ、すみません、間違えました」と謝ったりする。私はそのくらい気にならないので「良いんですよ。間違いは誰にでもあるんです。二度と繰り返さないことですよ」とか静かに呟く。と、客は「はい」と応える。みたいな感じになってきたので、気楽ではあるが、どうにもやる気が出ない。
 やはり自分の仕事ではないな、という感じがあるせいだろう。面白味はあり、困っていそうな人などが乗ると、サポートしたりやり甲斐もある。そういう仕事だけなら、ずっと続けても悪くない気がする。けれど、そういう客は一部だけで、多くは急いでいるとか歩くのが面倒だとかの理由で乗る。道を知らない私には来ないで欲しいが、ビジネス目的で急ぐというニーズはわかる。疲れたとか悪天候だからという理由もわかる。荷物が重いとか、四人で電車やバスに乗るなら料金もたいして変わらないからという理由もありだろう。
 と、たいていはわかるが、意外に夜繁華街へ遊びに行く目的というのがあり、そういう仕事は好かない。バスや電車で行けば良いのにといつも思う。こんな客を運んでないで、疲れて家に帰る人とか歩行が辛い人などを運びたいのに、と。けれど、夜に入る無線の配車は、そういう需要が多く不快になる。
 小さな駅の乗り場に着き、次はおれの番だ、などというときに無線がピコピコと鳴り、現地へ行くと、「大きな駅の方の繁華街まで」ということがかなり多い。んー、小さな駅では身も心も疲弊しきった人が待っているかも知れないのに、と不愉快になる。
 もちろん商売なので、目的はなんであれ、利用する客が多いに越したことはなく、私もちゃんと丁寧に運ぶが、より強く必要としている客は確実に存在し、運ばれたがっている。
 昔、需要をニーズとウォンツという言葉で分別したときがあったが、ウォンツというのは贅沢需要に近い。どんなことであれ、必需が優先されて然るべきだけど、車夫業の場合、そういう分別がつけにくい。呑みに行くやつなど急ぐことはないし、この辺では行き先がだいたい同じような場所だから、そういう客だけを集めて運ぶ小型バスでも運行させたらどうだろう。町ごとに巡回させて、二時間くらいかけて遊びに行きたいやつを拾い集めて運べば効率的である。で、どこかの歓楽ビルの前で放りだせば良い。そうすれば、真に必要としている客をもっと運ぶことができ、営業効率も上がることだろう。

 こちらの地域では路上で手を上げて停めるという客は少ないが、一日に何度かはある。いろんな人がいるが、いちばん多いのは老人である。特に多いのがバス停で停める客で、理由はわかりやすく、目的地も近い。次に多いのが交差点だが、こちらは目的地が読みにくく、意外なところもある。先日、隣県の自宅まで運んだ老婆は、交差点で手を上げたが、運ぶ途中で二回目だと気がついた。車夫はいつもいろんなところを走り回っていて、運行時間もコースも無いので、乗り場ではないところで停める人に二度でも会うというのは珍しいだろう。
 お婆さんも二度目だと気がついたらしく、盛んに話しかけてきた。ほとんどはその辺りの昔話だったが、とても愉しそうで饒舌だった。昨年から足が弱って、毎週礼拝に行った帰りに乗るのだと言う。どんな信仰なのか問わなかったが、生きがいのひとつなのかも知れないなと感じた。小柄でやや肥えていて、杖を手にしていた。確かに歩くのがきつそうで、車に乗りこむにも時間がかかった。が、声は澄んで若々しく、女子アナのような喋り方をした。論理もしっかりしていて、レトリックも使い、喋ることが得意なのだとわかる。若いころは、アナウンサーのような仕事をしていたのかも知れない。
 途中の国道が渋滞していて、家まで二十分くらい掛かったが、お婆さんは上機嫌で喋り続けた。
 家に着き、下車するとき、「お話の相手をしてくださって、ありがとうございました」と言って微笑んだ。

 毎回そういうお婆さんのような客たちと会えるなら、車夫も悪くはない。と思うが、そうではない客との比率は、四分六分という感じだろうか。五分五分でもいまいちで、七三くらいなら容認域か。八二くらいなら納得で、九一であれば不満なしという感じだろうか。
 いや、不満はいくらでも湧き出すものだから、それだけでは満足できるわけないが、そういう客たちと仕事できる方がありがたい。ウォンツよりもニーズの方がソリューションし甲斐があるものだから。