脱ポッピー思索。 | 境界線型録

境界線型録

I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.

 

 アップデートで思い出したが、十数年くらい前、ある顧客担当がバージョンアップという言葉をやたら使って欲しがっていたことを思い出した。事業体の趣旨から見るとバージョンダウンするようなサービスが追加されたので、それをアピールするためにバージョンアップと表現して欲しいと。
 この辺は宣伝の如何ともし難いポピュリズムの構図なのであまり触れたくはないけれど、わかりやすい言葉でコミュニケーションしてくるものに程度が高いものは滅多にないというのは常識だろうから触れても良いかな。古い系の代筆屋はあまりそういう言葉を使いたがらず、私も使いたくないので使わなかったが、しつこく使ってくれといわれるので使わざるを得なかった記憶がある。もう世間で流行っている言葉なんだから、使うなんてかっこわるいじゃんと思ったけど、所詮金で買われたしがない身の上、札びらに頬を叩かれひれ伏すより他に手はない。どうせ損するのは客だから、ま、良いかぁと。
 そういう経験は数限りなく重ねてきたので、なんとも思わない。ま、しぁあねぇなぁというくらいで。今も新語とか流行語とか毎年騒いでいるけど、代筆屋としてはそういうものの先を作ることが仕事なので、今流行っていることなど使うわけがない。が、近頃は今流行っているとか次に流行ることをいち早く使うのが仕事みたいな感じで、どうも情けないというか、ケロケロケーとなる。
 

 情報社会というのがポピュリズムに侵食されれば、必ずそうなる。人々は流行りそうなこと、流行っていると感じたことに大挙して雪崩れ込んでいくから、トレンド現象のパイは巨大化し、ドドーッと集まってまもなくササーッと引いていく津波のような感じもする。ピコ太郎さんとかいう人もそうなりそうだけど、グローバルでヒットしたから、もう一財産築いたことだろう。実にラッキーでうらやましい。
 芸人に比較すると代筆屋は裏方なのでたいへん地味なわけで、どんなに高名な人でも一発当てて一財産などということはない。超有名なあの方でも、超売れっ子時代のギャラはさして高額ではなかった。今は知らないけど、へぇ、そんなものなのかぁと感動した記憶がある。たいして儲かるわけでもないのになぜやるのか、といえば、答えは簡単。愉しいからだろう。愉しくなくなれば、やらない。こういう世界でヘンなことをやるものは、たいていそんな感じで、仕事に対する使命感とかはほとんどない。愉しそうならやる、愉しくなければやらない。実にいい加減なチンピラ商売である。
 

 いや、別に仕事論みたいなことを捏ねくりたいわけではなく、現代ってほんとにポッピーだなぁとつくづく思っただけである。あ、ポッピーというのは私が今作った言葉で、ポピュリズム愛好家を愛らしく表す素敵な呼称である。ポピュリズム大好きッという人は、ぜひ、ポッピーを名乗っていただきたい。私も、ポッピー梅軒と改名しようか。
 ポッピーが蔓延する時代というのは、まったくもって軽薄で、趨勢が善いと言いさえすれば何でも善いことになる。愛国主義とか共産主義などこの代表だろう。新興宗教系もちょっと構図が違いそうだけど似たようなものかな。武道も例外とは言いがたいだろう。文学もそうだし、科学はどうか知らないけれど、似たようなものだろう。こういうのは分野などは問わず、時代の人間の意識のトレンドなので、大枠がそうであれば何でもたいていそうなるから。
 都知事選で百合子ちゃんが大勝利したのもポピュリズムなわけで、それを理解している百合子ちゃんとしてはこの機を活かして都政を牛耳りたい。もちろん、視野の先にあるのは国政だから、小泉さんの真似ばかりしてもいられず、なにかやるのだろうと思うけど、小泉さんの頃からポピュリズムだから、というか、細川さんの頃から顕在化しだしたといえるか。もっとも、それ以前、というか戦後すぐからといっても良いと思うが、日本はポピュリズム国家なわけで、誰もがポップ大好きな、ポッピーなのだと思う。
 

 みんなポッピーという社会にあって、ポッピーを無視した政治などできるわけがないし、ポッピーを無視した行政なんてあり得ないし、ポッピーをないがしろにする司法だってないし、警察だってポッピーが大好きなのだッ。あ、違うかッ。
 けれど、ポッピーがこの世の主たる価値観になっているのは明らかで、みんなポッピーだろう。なぜなら今主たる流れに反抗するものも勢力拡大しないと趨勢になれないから、どうしてもポッピーにならなきゃならぬと努力せざるを得ず、ポピュリズムに迎合するより他に方法はない。
 もしかして、フランス革命の頃からそういう図式のままじゃないか、という気もする。
 要は、勢力を拡大したものがポッピーの意志を集めて勝利できるわけで、となると、ポッピーでなければ勝てないのが当然と言うことになる。
 けれど、たいてい、物事の本質とか真実というのは、ポッピーでない方に存在していたりするから、ポッピー続きでは、ポピュリズムを脱することなどできるわけがないと言うことになる。
 なんて考えれば、勝ちに行くなら、ポッピーしかないじゃん、となる。維新なんて言葉を平然と使う感性がそんな感じだろうか。

 真に善なること、革新的な、画期的な、偉大なこと、なんて、ポッピーの中にあるわけがなく、せいぜいノーベル賞で認められたらポッピーになり、ちらっと脚光を浴びる程度のことに過ぎない。ポッピーなることに優れたことがあるならば、とっくの昔にこの世は素晴らしいことになっているはずだから当たり前だろう。
 なんてことを、アップデートという現象について腹立ち紛れに記しつつ思っていて、未だに尾を引きずっているわけだ。そもそも、アップデートは良いのだけど、それは瑕疵の存在をみんなが自覚し、それを認めつつ、コツコツとそれぞれが努力し、協力し合って歩一歩と理想のゴールを目指していきましょうという合意の元になされるならばとても素晴らしいと思うけど、これこそ究極の商品ですッとか売りつけられて、数日後にはバグがありましたからアップデートしますッなんてやられたのでは話にならない。この世の人々は、半製品を許容していると言うことだろうか。どうも、不思議でならない。どう考えても完成された製品と見做して購入するのだろうと思うが、アップデートだのをありがたいサービスと感じられるのだろうか?どうにも判らない。
 

 もっとも私は今では喪失された過去にしか未来を見いだせない気がしているから、めちゃくちゃ退行的で、もう身ぐるみ脱いで先祖返りしたいッくらいの気分である。戦後七十年は進化の歴史的に見えるけど、科学技術と経済というか金融テクニックとかは大進化したが、他は何一つ進化しなかったのではないか。
 原爆を落とされて敗北したことで、次に目指す方向性は二つだろうか。
 一つは、いずれ原爆を開発し核武装して、強国になりたいと思う流れ。
 も一つは、原爆の醜悪を心底理解し、この世から核による武力を抹消したいと思う流れ。
 私的には当然、後者の流れになって当然と思うが、現実はそうでもない。私が知っている右翼の人々はほとんど、日本も核武装すべきだと信じて疑わない。たぶん、自民党にも多いだろう。核を抑止力というのは詭弁で、使いはしないけど脅しのために必要だとか考える。が、仮想であれ敵とするどこかが核使用をちらつかせれば、使うべきだとポッピーなら考え出すことだろう。
 

 近世まで地球上の至る国がそんな感じで、ポッピー争いをやっていた。勝てば気分が良いし儲かるから、まあ、のりやすいのだろう。日本ものっていた。日清とか日露でいい気になり、世界初の被爆国となった。何人の犠牲が出たのか憶えてないけど、ずいぶん多くの日本人が死んだことだろう。国家を愛し国家を守るために戦うと決意していた人々が、それも前線に出ていたわけではなく、不穏ながら普通に生活していた数多の人々が、ピカドンとなり死んだ。
 アメリカという国家は喜んだろう。国民の多くも喜んだことだろう。けれど、中には、苦しんだアメリカ国民もあったことだろう。前者はすべてポッピーだけど、後者はポッピーではなかった。
 趨勢の流れにのれない、へそ曲がりの弱者たちだろう。
 が、そういう数少ない人々の方こそが、未来を指向している。
 ポッピーは、やはり駄目なのだ。
 私も、やはり、ポッピー梅軒と名乗るのはやめとこうと思う。
 

 やけに重い話になってしまった感じだけど、平素からそういうことしか考えていないので、別に重いわけではない。いつもわざと軽くしてポッピーを装っているわけで、書き始める前には、ピー、ポッピーッ!と呪文も唱えるのである。あっ、実はポッピーだとバレてしまったか。
 いや、別に重い気分ではなく、昨夜の流れで、合気が喪失されていくのは、やはり人間の意識の問題だから、社会全体のトレンドに起因しているんだろうななどと考えているうちに、いつのまにかポッピーになってしまったのだった。
 もっとも政治行政がすでにただの成功願望オタクの遊び場になってしまったのは明らかだから、ポッピーしてれば良いのかなとも思われる。いっそ、そういうのが気にくわないまともな人々は、別次元の社会を作ってしまった方が良いのではないかとすら思う。革命だとか革新だとか維新だとか減税だとか、わかりやす過ぎるポッピー・キーワードは捨て、もっと気楽にいこうぜッ的な感じで、ストレスフリー時代を模索するようになった方が圧倒的にマシだろう。
 政治も日本維新とか勇ましぶってるばかりじゃ面白くもなんともなくダサいだけだから、日本元禄とか登場すれば良いのに。生真面目ぶったポッピーほどダサいものはないし、外しまくりのポッピーそのもの的なスマイル党なんてのもアホかいなだし、結局は脱ポッピーしか道がないはずだが、この世はポッピーでできている。
 アメリカに芽生えた一パーセントのセレブ問題などポッピー論で考えればあり得ないことのはずだけど、あれはポッピーを形成する因子が人間のみではなく金銭に代替される時代になったという証だろう。すでに人間は、銭金に代替されて勘定されていると言うことに相違ない。それに腹を立てて騒ぐ九十九パーセントの人々もひっくり返ったポッピーに他ならない。
 では、どうすればポッピーから脱し得るのか?
 なんてことを考える方が、やいのやいのとやるよりも、意義ある脱ポッピー行動だろうか。