ニッチ。 | 境界線型録

境界線型録

I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 いきなりドバドバとテキストを放りこんだので、ついに狂ったかとご懸念される向きもあるかと思うけれど、平静である。時間が無くなるといつまでも終わらず鬱陶しいだろうから、時間があるときに放りこんだだけ。

 あまり踏みこみすぎないように癒しの一曲を貼ろう。



 別に読んで欲しいとは思わないが、自分がずっと欲しいと感じている一サンプル。本物の手で描かれた、そんなのが欲しい。叙情的なものやストーリーテリングの見事なもの壮麗なもの可憐なものなどは世の中に溢れているが、私が読みたいと思い続けている滑稽ものや人情ものに私的評価での佳品が書店にはまったく見当たらない。
 若い頃から井伏鱒二さんの滑稽語り風の格調高い長編が出ないかと、ずっと期待していた。が、出なかった。滑稽風には先頃無くなった大作家さんなどもいらしたし、SF系に筒井さんという大御所もいらっしゃる(今日の朝刊でマルケスへの思いを目にして驚いた)が、私にはなじまない。高橋さん(この方のツイッターは凄く良い。お奨め)や池澤さん辺りがやるかなと期待していた時期もあったが、それらしきものをおやりにはなったけれど面白くなかった。文体というもののせいだが、好みがあまりにも少数派なのか、貪り読み感動するものも少なくないけれど、滑稽もの、人情もの、サスペンスものには皆無に等しい。ややこしい話など良いから、どなたか確かな力量を持つ人に、楽な良品を描いて欲しい。旋律もなく拍子すらギクシャクしているものがベストセラーになるようでは心許ないが、もはや再読しか楽しめない読書好きにも、少しは甘露を与えて欲しい。
 その手のヘンなものは海外にはけっこうあるのかも知れない気もする。ミュンヒハウゼン男爵という快作もあったし。あるいはチャペックの山椒魚戦争とかのホラ話。この人の園芸家十二ヶ月は随筆のような体裁だが、私には最高のファンタジーであり壮大かつ真摯な物語である。また、サスペンスも嫌いではないが日本のものはつまらない。モームのアシェンデンみたいに、やめられないとまらない、といって派手ではなくごく地味だか引きつけてやまないものが欲しい。私は頭が幼稚なので、感動系ではフランダースの犬を越えるものを読んだことがない。電車の中で涙を流している私を見かけたなら、きっと私はパトラシエとネルラを見つめているのである。家の中ではご老公様だが。
 楽々読めるけれど、読むために少しは汗を流したくなる作品が欲しい。戯作の利点はそこだろう。
 この手のことは、書き出すとキリがないから止めとこう。
 ビジネスでは、少数派を切り捨てざるを得ない。が、それは自分の首を絞めることだろう。経済は多かれ少なかれバブルなのだ。次のバブルの種子は、常に少数の中にある。ここが見えずに浮かれ騒ぐ人間が多すぎる。今、浮かれているものは、すでに過去のものなのだ。次の出来事は、御輿の上にはない。
 企業が不採算店とか事業を切り捨てるように、書く人だってマイノリティー相手では、喰えない。
 私のような商売は、どうしてもマジョリティー相手になるが、私的に読みたいのはごく少数派の言葉の配列。私は何度ブログで感動させてもらったか知れない。けれど、そういうものを書いていては喰えない。故に、育たない。
 次を目指すなら、どうしても少数派である方が賢い。多数派は嵌めやすいが、それが、人間の資質というか感性を水泡にする一大要因だろう。
 これも生物多様性。限られた集合である少数派こそが、踏み留まらせてくれる、という気もする。
 少数を楽しもうよ、というのが、猟奇的テキスト放りこみのひとつの原因といって良いか。
 近頃プロのやることは、マーケットを計りすぎるあまり凡庸かつ安直で、対価を払う価値を感じない。著作権云々と騒がれるが、ほんとうに深い価値を感じるなら、消費者は一円でも安く買おうなどとは思わない。次ぎも良いものを産んでくれるよう、喜んで適正な対価を支払うに違いない。こと書籍や音楽に限って言えば、中古市場が新品市場を凌駕するのは、ひとえに商品価値が下落しているためで、中古業者や消費者のせいではない。生産者の質が低いからだ。
 これは、単なる技術の問題ではない。根本から上っ面までの全体像の問題。もちろん責任の一端はわれわれ購入する側にもあるけれど、多くは作り手にある。