カワウの事情。 | 境界線型録

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 カワウは、かわうそうか?
 いきなりオヤジギャグにしてしまったが、かつて絶滅の危機にあった水鳥が急増して、全国の河川で多大な被害をもたらしていると、数日前の朝日新聞で目にしたせい。この話はもうひとつの方でやりたいところだけれど、クドクドできないので、こちら。最近また気分が旧キャラに戻っているので。

 カワウの反転急増問題は、すでに1980年代頃から見えていたと思うが、2000年頃には騒がれだし、確か朝日も熱心に報じていた気がする。数年前もやっていた。
 そして、数日前も。
 この手の記事は、漁業を助ける意味では重要な働きをするのだけど、私が読んだ記事には、カワウによる被害の甚大さ、漁業者の困惑などが書かれてあったが、『なぜ、カワウが異常と言えるほど繁殖してしまったのか』という点には一切触れられていない。
 かつて絶滅が危惧された水鳥が生き残り、再び栄えていることはわかった。それが、人間にたいへんな被害を及ぼしていることもわかった。早急にどうにかしないと、漁業者がますます困ることもわかった。国なり行政なり自治体なりが、どうにかしようというなら、賛成もする。さっさとやって、漁業者をサポートして欲しい。
 が、決定的に欠如している問題がある。

 『なぜ、カワウは異常繁殖したのか。』

 こんな問題は、シカ害と同類で、シカがやたら増えてしまって、森の木の皮だの芽だのを食い荒らし、貴重な植物に被害を及ぼしている。どうにかしないとまずい、というので、食用として活用するのがベストだ、と叫ばれたりする。それは、それで良い。いずれ死ぬ肉なら、他の生物の栄養となる方が良い。神様も喜んでくれるだろう。
 が、決定的に欠如している問題がある。

 『なぜ、シカは異常繁殖したのか。』

 別に答えは書くまでもないだろうが、一応書いてみると。
 天敵となる生き物が先に絶滅した、あるいはその生き物に興味を持たなくなった、併せて生存環境が幾らか改善したから。
 シカの問題は、オオカミの絶滅で容易に説明が付くだろう。それだけじゃないとは思うが、単純化すればそういうことだろう。オオカミを絶滅させたのは人間なのだから、責任を取ってオオカミの代わりにシカを食うのは致し方ない措置だろう。
 けれど、責任を取ればいい、という問題ではない。生命に関わる問題の本質は、たいていそこにある。責任を取れないことが多い、ということを人類はもっと認識しないとヤバイのではないか、といつも思う。誰かを殺しました、苦しいので私も死んで責任を取ります、なんてアホなことを言うやつがいるけれど、そんなことでは何ひとつ責任は取れない。
 重要なのは、生命に関する限り、責任を取らなくて良いように、細心の注意を払って遠慮してこそこそと生きること。これしかない。自然作用による絶滅は自然がやる必然だから仕方ないが、人間に起因する絶滅は、生命への最大の反逆だと、そろそろ理解しないとヤバイ境界線を越えてしまう気がする。エコだとか言って太陽光発電したりエコポイントを集めたりしている場合ではないんではないか、とか日々思う。思っても仕方ないから、ユーチューブを眺めて遊んだりしてしまうのだが。




 カワウはどうなんだろう。カワウの天敵は、やはりカラスとかトンビだろうか。
 トンビは見かけなくなったが、カラスはそこら中にいる。けれど、カワウは平気の平左で増えている。
 これはどういうことかと、さっき考えたら、カラスが都市化したからに決まってるな、と言うことになった。山川で餌をとりにくくなったカラスは、簡単に食いものにありつける都市に移住した。
 ということで、山川はカワウの一大リゾートになった。鮎も鯉も無料食べ放題である。

 カワウにしてみれば、ただでいくらでも食えるのだから、こんな嬉しいことはない。が、放流して養殖したりしている漁業者にしてみれば、このやろ、ただ食いしやがって!とカチンと来る。カワウは一切害意をもたず、鮎だの鯉だのをムシャムシャとやるのだけど、人間はとんでもない被害を被ったと腹を立てざるを得ない。
 今さら言うまでもなく、こんな図式でもっとも真犯人に近いのは、常に、被害者たる人間になる。被害者=加害者というのが、ほとんどの真相だろうが、そんなことはわかっているけど、どげんかせんといかんとやる。
 そして、いろいろ、取り返しのつかないことを引き起こす。

 失われたDNAは、ジュラシックパークみたいに簡単には、取り戻せない。
 問題の本質を見失って、軽薄極まりないソリューションをやると、必ずそうなる。

 今、もっとも懸念されるのは、やはり菅政権のデフレ脱却を目指す新成長戦略だろうか。
 デフレ脱却というのは、消費者の可処分所得の増加を前提にしないと、歪みしか生まないだろう。
 そこに、消費税10%というダブルパンチを浴びせる。
 消費力のない大衆は、消費から逃避する。と、国家経済を支えるのは、可処分所得をふんだんに蓄えている富裕層だけになり、格差が固定化していく。これは、マルクスがもっとも毛嫌いしたことではないか。
 経済より私は宗教の方が好きなのでネタを言い替えれば、親鸞が命を賭して破壊しようとした、特権宗教の構図ではないか。
 もう何百年も昔に経験してきたはずの教訓が、今日になっても、まったく活かされていないと言うことに驚かざるを得ない。
 新成長戦略の概要を見たが、将来の日本を良くしそうな企みはひとつもない。環境・エネルギーは太陽光発電ビジネスの拡大だけだが、20年後に訪れる代替・廃棄時の対処策は充分にアセスメントできているんだろうか。無いだろう。医療は、まあ、商売化したいなら勝手にやればいいが、生命の軽薄化などという危機を孕むだろう。アジアって何だろ?と思っていたら、どうやらアジア域からの法人誘致のことらしい。これもどうでも良い。シンガポールとかの真似をするだけだろう。観光は休日を弄ってレジャーの移動を活性化する。科学技術は、日本が強い分野を集めた拠点で大学院教育を云々。雇用・人材がふるっていたが、幼稚園と保育所を「子ども園」に一体化、待機児童を解消とか書いてあってびっくりした。このものどもは、なにを考えてるんだろう。良くわからない。

$新・境界線型録-昨日の八丁堀


 まともな頭なら、まず、累進課税に手を付ける気がする。これありきだろう。
 起業の意欲を削ぐなんてのは幻影に過ぎないし、そんなもの削いだって、欲ボケは起業したがるから心配ない。
 法人税は戦術的に加減すればいいが、個人資産が偏るから経済が停滞するなんて、郵貯の現実を見れば歴然ではないのか。大した能もないのに暴利を貪っている爺から剥奪して、働きたいのに働く場がないなんてやつらに利益供与するのが、今の政治家がやるべき最優先課題。それなしには大衆の可処分所得は増えないんだから。可処分の余力を増やしもせずにインフレ政策をとったら、犯罪が増えるだけ。
 で、消費税率を上げれば、われわれ衆愚は消費税を払って飯を食うために、頑張って犯罪を犯したりしないといけない近未来が訪れそうな。
 ま、戯作的解釈に過ぎないが、そう外れてはいないような気がして怖い。
 越えてはならない一線を越えないと良いんだが、どうなるのだろう。
 興味津々だが、不安深々でもある。