源義経と武蔵坊弁慶が没した文治5年(1189年)は平安時代の末か、鎌倉殿のはじめか、日本史における古代か中世か、見解が分かれるだろう。
令和4年5月22日『鎌倉殿の13人』第20回「帰ってきた義経」
1189年6月15日(文治5年閏4月30日)、源義経没。
1333年7月4日(正慶2年/元弘3年5月22日)、鎌倉幕府滅亡。
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文治5年(西暦1189年)の奥州藤原氏(あうしうふぢはらし)の滅亡はナレーションで終わり。
詳しくは『炎立つ(ほむらたつ)』を見ればいいか。
文治5年(1189年、己酉)から3年後、建久3年(1192年、壬子)に源頼朝が征夷大将軍になった。 東北を支配してから征夷大将軍になったということは、その後は北海道を狙っていたのか? 明治2年(1869年、己巳)に戊辰戦争が終わったときは、奥州藤原氏滅亡から680年が経過していた。
令和4年5月31日tw
文治5年(1189年)、源義経没。奥州藤原氏滅亡。
建久元年(1190年)、源頼朝が上洛。
建久3年(1192年)、後白河法皇崩御。源頼朝が征夷大将軍になる。源実朝誕生(のちの鎌倉3代将軍)。
建久3年(西暦1192年)に源頼朝が征夷大将軍になり、それから675年後の慶応3年(1867年)に徳川慶喜(自称「源慶喜」?)が大政奉還。
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/令和4年6月(AmebaBlog)
参照
/(扉)初の武家政権、平家だった? 天皇との二重権力の先駆け/鎌倉幕府ほどの自立性はない:朝日新聞デジタル (asahi.com)/