令和2年tw
奥州合戦で奥州藤原氏が源氏に屈した。征夷大将軍による日本の支配の始まりであった。それから680年後は明治2年(1869年、己巳)。前年の慶応4年(1868年、戊辰)から続いていた戊辰戦争が終わった。東北の会津が薩長土肥を中心とする新政府軍と戦ったのは皮肉な結果だった。
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夏草や兵どもが夢の跡 ※義経たちが戦ったのも 藤原氏が栄華を極めたのも 夢のまた夢 その跡にはただ 夏草が 生い茂るばかりである -奥州高舘にて- by 松尾 芭蕉
『#鎌倉殿の13人』
文治5年(1189年)から元禄2年(1689年)まで500年。
夏草や兵どもが夢の跡 なつくさや
つはものどもが ゆめのあと 松尾芭蕉(まつをばせう)
大河ドラマも映画ドラえもんもウクライナ情勢と重ねて見てしまう。 奥州藤原氏の悲劇は「降伏したら却って攻め込まれる」という例。
/【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝による藤原泰衡の討伐は既定路線だった(渡邊大門) - 個人 - Yahoo!ニュース/
文治5年(西暦1189年)の奥州藤原氏(あうしうふぢはらし)の滅亡はナレーションで終わり。
詳しくは『炎立つ(ほむらたつ)』を見ればいいか。
文治5年(1189年、己酉)から3年後、建久3年(1192年、壬子)に源頼朝が征夷大将軍になった。 東北を支配してから征夷大将軍になったということは、その後は北海道を狙っていたのか? 明治2年(1869年、己巳)に戊辰戦争が終わったときは、奥州藤原氏滅亡から680年が経過していた。
令和4年5月31日tw
弁慶の立ち往生は「武蔵坊弁慶」(昭和61年、西暦1986年、新大型時代劇)、「炎立つ(ほむらたつ)」(平成5年~6年)、「義経」(平成16年)、「平清盛」(平成24年)を見ればわかるか。
『鎌倉殿の13人』の「義経の最期」の場面では、北条義時と義経のやりとりが描かれ、弁慶の最後の奮戦は音声と台詞だけ。これは、やはり北条のドラマか。
静御前が注目されがちだが、静御前は側女(そばめ)であり、正妻は郷(さと、劇中では「里」)。
義経の最期のときに妻と娘が一緒にいたことがきちんと描かれていた。
/頼朝が奥州藤原氏を滅ぼす奥州合戦はなぜ起きた?真の狙いは義経に非ず - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) (bushoojapan.com)/
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【非公開】年代表、平安~鎌倉
令和4年05月30日 11:55