返信先:@__risu_さん,@top_hagebons13さん
壇ノ浦の戦いの年(1185年)は、平家で寿永4年、源氏で元暦2年→文治元という風に源平で元号が違っていたようです。また大黒屋光太夫は日本での改元(1789年、天明9年→寛政元年)を知らず、寛政2年(1790年)になってもロシアで日誌に「天明十年」と書いていたようです。
<平成29年>〔午後7:50 · 2017年12月19日〕
文治5年(1189)閏4月30日、衣川の戦いで源義経が妻子とともに自害しました。画像は紅葉山文庫旧蔵の『義経記』で、最後まで奮戦した弁慶が立ったまま討死する場面の挿絵です。有名な「弁慶の立ち往生」として有名ですね
<平成30年>〔午前8:00 · 2018年4月30日·Buffer〕
文治5年(1189年)、源義経(源義經)と武蔵坊弁慶(武藏坊辨慶)が他界。さて、これは平安時代の末か、鎌倉時代の初めか。古代か、中世か。
大阪万博のあった年について「『1970年』より『昭和45年』の方がわかりやすい」と言う元号愛好家は、壇ノ浦の合戦があった「1185年」を「文治元年」で覚えているのだろうか?
〔「鎌倉」でなく「北条時代」が区切り 時代区分に新提案:朝日新聞デジタル〕
〔#鎌倉幕府〕
「鎌倉時代」の始まりは1185年(文治元年)か1192年(建久3年)か。 時代を800年ずらすと1985年(昭和60年)から1992年(平成4年)までの7年間のうち、時代の境目はいつが相応しいかという問題もある。 〔#元号〕
「建久」は1190年から。 「平成」は1989年から。
〔#鎌倉幕府〕
大河ドラマ「草燃える」(1979)は源頼朝(1147~1199)と北条政子(1157~1225)の物語だったが、新大型時代劇「武蔵坊弁慶」(1986)や大河ドラマ「義経」(2005)になると話が1189年で終わっていた。大河ドラマ「平清盛」(2012)は主人公が1181年没なので、1185年の壇ノ浦の戦いで終わっていた。
大河ドラマで1190年以降の鎌倉時代(1185~1333)が描かれるのは「北条時宗」(2001)以来か?北条時宗は1251年生まれ、1284年没、執権在職は1268年以降。こういう話では元号より西暦の方が分かりやすい。
〔2022年(令和4年)の大河ドラマは「鎌倉殿の13人」〕 tweet(8)
元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)、壇ノ浦の戦いで平家一門が滅亡しました。画像は江戸時代前期に出版された横型絵入り本『源平盛衰記』の見開き挿絵部分です。物語や芝居に繰り返し描かれたこの場面、2022年の大河ドラマ #鎌倉殿の13人 でも描かれるのでしょうか?
〔1185年(源氏:元暦2年、平家:寿永4年)の「壇ノ浦の戦い」から835年〕 - teacup.ブログ“AutoPage”
今日は何の日? 文治5年閏4月30日は #源義経 の命日です。 源平合戦でめざましい活躍をした義経でしたが、兄・頼朝との対立により最期は奥州の地で命を落としました。後に「判官贔屓」という言葉が生まれるなど、義経は悲劇のヒーローとして人々に愛され続けています。
〔【伝説多き英雄:源義経】その悲劇の一生と、兄頼朝とすれ違った理由 | 歴人マガジン〕
義経を扱った作品では静御前(しずかごぜん)との関係がメインになる。郷御前(さとごぜん)が気の毒である。 1189年は平安時代末期か鎌倉時代初期か、意見が分かれるだろう。 1189年6月15日(文治5年閏4月30日)、源義経没。
「文治」は呉音では「もんぢ(→もんじ)」。漢音では「ぶんち」。 元号の「文治」は「ぶんぢ(→ぶんじ)」と読まれるようで、これは「漢音+呉音」である。 「文治政治」の「文治」は「ぶんち」または「ぶんぢ(→ぶんち)」。
〔#呉音と漢音〕
「文治政治」は呉音で「もんぢしゃうぢ」、漢音で「ぶんちせいち」。 「政治」が「せいぢ(→せいじ)」と読まれるのは「漢音+呉音」。
〔#呉音と漢音〕
T-CupBlog>〔源義経没後831年、虚実歴史、2020年4月書き込み一覧〕
前後一覧
〔令和3年正月〕
関連語句
〔北条時代〕(twitter)
参照
〔鎌倉時代の始まりは1185年か、関連tw(2017年3月)〕