>@dempax2012 @yasushitamaki #はだしのゲン
翠楊社ベストコミック版
苦闘編1977/5/1
激動編1978/7/15
激動編完結1979/7/15
>@kenshimada 3.11後に「はだしのゲン」が阻害されはじめた理由がよく分かる1ページ。
〔時浦兼@tokky_ura〕
やっぱり安倍シンパは安倍の真珠湾訪問を支持してるらしく、中にはオバマが広島に来たお返しだとか言ってるのもいるようだ。真珠湾は戦争で、広島は民間人虐殺、全く違う!!それを同一視するのは、米国の歴史観だ。安倍晋三、二年連続の年末歴史売国か!?
〔アスパラ@Destiny2&EDF5@disco_graphy〕
返信先:@tokky_uraさん
日本人による一方的な歴史観しか持たないのであれば、今後の日本は同じことを繰り返すだけ、相手の立場に立って考えられる思慮深さが今の日本には足りていないのだと思う。
返信先:@disco_graphyさん,@tokky_uraさん
戦後の日本は与党支持者も野党支持者も改憲派も護憲派も米国の歴史観で洗脳されていました。被爆者も大半は終戦当時子供だったので真珠湾について説明できない世代で、前の世代が勝手に始めた戦争で自分たちは迷惑だったくらいの認識でしょう。
〔anamochi★あなろぐ餅米(怪獣漫画連載中)@anamochi_twit〕
返信先:@disco_graphyさん,@tokky_uraさん
同感。相手の立場に立って考えれば「原爆の動物実験ができるぞ」「ソ連その他に見せつけてやれ」という向こう様の本音が見えてきそうなものなのに
神風特攻隊は第2次大戦末期、日本の敗戦が濃厚になった時の苦し紛れの策だった印象ですが、真珠湾の時から作戦として有ったか否かよく知りません。
1941年(昭和16年、民国30年)当時は30年前が1911年(明治44年、宣統3年)なので、幕末の志士や明治の士族の「尊皇攘夷」の精神が日本の兵士に受け継がれていたのかも知れません。
平成29年tw
/#はだしのゲン/の原型となった漫画「おれは見た」では、少年時代の中沢啓治が家族と一緒に防空壕に入り、中沢啓治の両親がこのような会話をしていた。 母・キミヨ「あんた このごろ まい日のようにアメリカの飛行機がおそってくるね」。 父・晴海「近くに呉の軍港があるからだ」。
/ほくほく蛙(かわず) =@寝ごと詩人さん (@hochockawazu) / Twitter/
「この世界の片隅に」と広島㉛(江波その22 すずとゲン) - 蛙のねごと −広島の街編ー - /Yahoo!ブログ/
/#広島 #この世界の片隅に #はだしのゲン #戦争 #原爆 #江波 #たんぽぽ #麦/
「おれは見た」によると、中沢啓治の長兄・康人は呉の造船所で働いていたことがあり、終戦後、広島市に戻ったらしい。「はだしのゲン」では、ゲンの長兄・浩二は予科練に志願し、やはり、敗戦の後、広島市に戻って、家族(江波に移っていた)と再会した。
「おれは見た」と #はだしのゲン で呉の空襲が少し描かれていた。作者の長兄は呉の造船所で働き、「ゲン」では呉空襲→ゲンの長兄が予科練に志願→岩国空襲と続き、その後、#この世界の片隅に の内容と少し関連する場面がまた出て来る。
平成30年tw
/#はだしのゲン/の作者・中沢啓治は、自傳漫画「おれは見た」で自身の生まれた時期を「昭和十四年三月」としており、「ゲン」の冒頭では「昭和二十年四月」と書き、戦後編では「一九四八年(昭和二十三年)七月広島市」のように西暦と併記にしていた。
/speakerさん (@speaker0916) / Twitter/
Hiroshima
/#原爆/#atomicbomb/#はだしのゲン/#エノラゲイ/#b29/
おれは見た(I SAW IT)
中沢啓治(Nakazawa Keiji)
/#原爆の /#広島原爆の日/#hiroshima/#хиросима/#august6/
/#昭和20年(1945年)の7月になると軍港のあった呉が何度も米軍よる空襲を受けた。しかし広島は空襲を受けず、当時の人々は「広島は安全」だと思っていたかも知れない。#はだしのゲン では広島に住んでいた元の母・君江が逆に不安を感じていた。その不安は原爆投下という形で的中した
令和元年tw
個人的に「はだしのゲン」を読んで「江波」と「松江」を知った。呉(くれ)に軍港があって広島市に原爆が落とされる前に呉が米軍による空爆をうけていたことも「ゲン」で知った。
参照
2013-09-27 05:02:21
〔原子爆弾〕
テーマ:神宮寺コレクション◇
2020-08-09 21:25:24
2020年12月29日
LivedoorBlog>【復刻版】「この世界の片隅に」と広島㉛(すずとゲン) - ひろしま街がたり