もしも番場蛮と藤村甲子園が高校卒業のときにプロ入りしていたら

番場蛮と藤村甲子園の学年は江川卓(作新学院→法政大学)より1年先輩である。番場が高校を、藤村が大学を退学せずに進学していたらこうなる。

 

1970年度(70年4月~71年3月) 番場・藤村高1 江川中3→番場は秋に高校中退、巨人入団
1971年度(71年4月~72年3月) 番場・藤村高2 江川高1 
1972年度(72年4月~73年3月) 番場・藤村高3 江川高2
1973年度(73年4月~74年3月) 番場・藤村大1 江川高3
1974年度(74年4月~75年3月) 番場・藤村大2 江川大1→藤村は阪神に入団し、長嶋と対戦
1975年度(75年4月~76年3月) 番場・藤村大3 江川大2
1976年度(76年4月~77年3月) 番場・藤村大4 江川大3→藤村、プロ3年目で肩を壊して引退か
1977年度(77年4月~78年3月) ______ 江川大4
1978年度(78年4月~79年3月) ______ ____→78年秋から「江川事件」

 

『ドカベン』の明訓編初期で山田太郎、岩鬼正美が明訓高校1年だったのは、夏の甲子園決勝までの描写で1974年。このとき、江川は法政大学に入ったときであった。

 

もし、番場蛮と藤村甲子園がそれぞれの高校を卒業してからプロ入りしていたら、73年と74年のシーズンだけでも阪神・藤村と巨人・長嶋による投打の対決や、巨人・番場と阪神・藤村の投手戦が実現していただろう。
また、もし、藤村甲子園が現役時代の長嶋選手との対戦にこだわらず、77年3月まで大学野球を地道に続けていたとしても、卒業してすぐに吉田阪神に入れば、対戦相手が長嶋選手から長嶋監督になっただけで、それから1980年までは指導者としての長嶋を相手に投手・藤村甲子園が戦うこともできたはずだ。
75年から80年までは王貞治もまだ現役だったし、76年から張本も巨人に入っており、藤村にとって巨人軍は、77年から80年までの時期もまだまだ相手にとって不足はなかっただろう。この時期、江夏は阪神から去っていたものの、投手は江本孟紀、猛虎打線は田淵と掛布の時代であり、まだまだ、藤村をサポートするには充分であった。

 

もし、藤村甲子園が10年近く現役を続けていれば、世代的に近い掛布とともに1985年の阪神優勝に貢献できたはずだ。しかし、82年から85年までの時期、藤村甲子園は甲子園球場の職員であった。母校・南波は光高校に敗れ、青田高校と対戦した明訓の岩鬼は阪神時代のバース、巨人時代の江川のまねをしていた。

 

結局、藤村甲子園は「巨人軍の現役の打者・長嶋茂雄と対決する」という夢に執着しながら、長嶋引退直前にプロでなく大学野球を選ぶという中途半端な選擇をしたため、大学野球もプロ野球も未消化のまま、作品の終焉を迎えてしまったキャラクターだと言える。
それで「長嶋茂雄との対戦」という夢をかなえてしまった藤村甲子園は、その後、投手としては短命に終わったようで、3年目の開幕戦で肩を壊して引退(Wiki)。3年目であれば76年か。
3年で終わったのは左腕時代の星飛雄馬(67年秋二軍~68年一軍入り~一軍と二軍往復~70年秋)と同じである。

 

しかも、長嶋との対戦から引退までの藤村甲子園の活躍は『大甲子園』で記者の台詞で語られているだけで、作品としては描かれていない。
『男どアホウ甲子園』の続編は『一球さん』だったが、これは高校野球の指導者になった岩風の後日談がメインで、阪神に残ったはずの藤村の活躍はほとんど描かれておらず、終盤で南波高校と巨人学園の試合を観戦していただけである。ある意味では惜しい結末であった。

 

『男どアホウ』は主人公が「巨人の投手」でなく「巨人の名選手と対戦したかった阪神の投手」というだけで、結局、主人公も作品自体も「巨人離れ」ができていなかったわけだ。これは『男どアホウ』が原作者つきだったこともあるのだろうか。水島新司がプロ野球を描いた作品の「巨人離れ」は『あぶさん』『野球狂の詩』で完成し、『ドカベン・スーパースターズ編』に受け継がれている。