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番場蛮と藤村甲子園の経歴 

番場蛮は四国・土佐嵐高校出身で、1970年の秋、高校を中退して巨人に入った。
藤村甲子園は大阪・南波高校出身で、高校を卒業後、東大野球部に入り、急遽大学を中退して阪神タイガースに入り、1974年(中退していなければ大学2年の時期)に長嶋と対戦した。この1974年は番場蛮にとって最後のシーズンとなった。

もし、番場が1973年3月の高校卒業のあとプロに入っていたらどうなるか。その場合、アニメの番場と同期になる。その場合、プロ入り1年目でV9達成であるが、その後数年投げ続けることができたとしても。2年目の74年には中日にセ・リーグ優勝を奪われ、3年目には最下位長嶋ジャイアンツのもとで投げていたことになる。「もしも番場が最下位長嶋巨人のもとで投げていたら」は豊福きこう氏が書いていた假定であるが、番場蛮にとってもはや倒すべき「鯨」は巨人でなくなっていたわけだ。

また、もし、藤村甲子園が大学に入らず、南波高校を73年3月に卒業してから阪神に入っていれば、長嶋茂雄との対戦は73年と74年の2シーズンであった。
しかも、73年秋には当時、無名だった掛布雅之が6位で指名されている。掛布は江川と同学年で、73年秋のドラフトでは江川が阪急から指名され、入団を拒否して法制に入った。
『野球狂の詩』ではこのとき、阪神が1位で南の虎・王島大介を指名したはずだ。

そもそも、藤村甲子園はなぜ大学への進学を選んだのだろうか。
甲子園球場と縁の深い選手であるから、高校の野球部に入って3年間、甲子園出場を目指すのはわかるが、大学野球では神宮球場がメインになり、甲子園球場とは縁が薄くなる。南波高校を卒業した段階で阪神に入れば、アニメの『侍ジャイアンツ』のウルフ・チーフと同じでV9を達成した川上巨人を相手に戦うこともできたはず。何より、念願の長嶋茂雄との対戦もできたはずだ。

一方、もし、番場が大学で4年間野球をして、大学卒業と同時にプロ入りしていたら77年春のデビューであった。ヤクルトに入った花形満と同期になる(花形は1949年生まれなので、番場より5年先輩)。76年に復活セVを成し遂げた長嶋Gであったが、日本一は前年に引き続き阪急。阪急にとっては75年に念願の日本一、76年には巨人を倒しての日本一の夢が実現といったところ。番場蛮にとっては巨人の日本一奪還がテーマになっただろうが、実際はその役目は2年目の右腕投手・星飛雄馬がになっていた。

また、藤村甲子園が「長嶋茂雄との対戦」というアンチ巨人か長嶋ファンかわからない目標をもっていたことが経歴を複雑にしてしまったと言える。もし、藤村甲子園が大学を中退しなかったら、長嶋引退は大学2年の後期。もしも、そこで藤村が委細構わず大学で投げ続けたとすると、その間、江夏は阪神から放出され、江本孟紀が阪神の投手で、当然ながら小林繁はまだ巨人からトレードされておらず、阪神では田淵幸一と掛布雅之が阪神打線を引っ張っていた。
藤村甲子園が大学を出た直後から阪神に入っていたとしても、充分、活躍できたはずだ。
甲子園が大学を卒業していたら、プロ1年目は1977年。『新巨人の星』ではロメオ・南条が阪神に入った時期であった。
└→番場蛮、藤村甲子園と江川卓の学年、球歴比較

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