總論・壱 

 銃の乱射や拉致事件は秩序の崩壊である。そういうことが起きると人々は政府による規制を求めるが、それが「治安維持法」である。マスコミが事件の加害者の作文、生い立ちまでかぎまわる癖も同じだ。
 『母(かあ)べえ』では戦争に反対した者が治安維持法違反で検挙されている。すると、戦争への反対が治安を悪化させるということは、反戦運動が銃の乱射や爆弾テロのような秩序破壊と見なされる事情があったのかも知れない。安保闘争、学園紛争の暴力性を見れば明白である。
 すると、人権擁護法案であれ、個人情報保護法であれ、何でも法の規制に頼る民衆の安易さが治安維持法の繰り返しを生むと言える。

 「戦争」の反対は「話し合い」であり、「平和」の反対は「無秩序」である。今、沖縄で起きているのは、兵士による無秩序である。沖縄の反米運動は、実はアメリカ相手の戦争を継続しているのである。
 『はだしのゲン』の中岡大吉は戦争に反対しながら、息子や他家の者まで平気で殴っていた。ゲンも喧嘩の達人で、隆太は殺人まで犯していた。これらの「暴力」は国家レベルでは「戦争」になる。日米安保闘争や学園紛争を見ると、反戦主義者であるはずの民衆が好戦的である。日本の軍国主義を批判する反日デモ隊が暴力的で、その国家が核兵器を持っていることがいい例である。

 つまり、反権力も権力であり、反戦主義者も実は好戦主義の一種である。
 『巨人の星』、『あしたのジョー』などの梶原一騎の作品は「戦後」日本の平和主義や人権尊重に逆らい、暴力と殉死を描いている。花形満が星明子に語った評によれば、一徹と飛雄馬は「日本中が根無し草のように西洋化しつつある中で、古き良き日本を死守する姿」だった。『巨人の星』の中で手本として宮本武蔵や坂本龍馬など、武士の逸話が出てきており、この武士道を前面に出したのが『侍ジャイアンツ』である。
 この『巨人の星』(または梶原作品)が学園紛争の時代に大流行していたことについて、呉智英(くれともふさ)氏は「戦後史の大きな矛盾」だと『巨人の星』文庫あとがきで述べている。
 しかし、反戦主義者が軍国主義者である矛盾を考えれば、納得できる。核保有国が他国の核実験を批判するのも、秀吉の刀狩り、明治政府の廃刀令と同じで、「テロとの戦い」も秀吉とねね(北の政所、高台院)が考えた「戦をなくすための戦」と同じ考え。反戦デモも「戦をなくすための思想戦」である。死刑廃止を支持するマスコミが、死刑を執行した東京裁判を批判しない矛盾もそこにある。日本がアメリカや中国を相手にやった戦争も、実は国内の反戦運動と同じで、「戦争の原因をなくす」ことを目的としていたのかも知れない。
 多くのヒーローもので描かれる「平和を守るための戦い」がそれで、敵は世界征服を狙う。しかし、世界が征服されれば「世界は一つ」という人類の夢が叶うはずだ。では、人々はなぜ世界を一つにすることを拒否するのか。始皇帝は文字の不統一を嘆いたが。現代になっても食べ物の安全基準、銃の規制など、世界は一向に一つになっていない。人々は世界を一つにすることを拒否している。コソボ(Kosovo)の独立もそうである。

 ジョン・レノン(John Lennon、1940~1980)は「国(国境)がない世界を想像しよう」と歌っていて、宇宙飛行士が「地球は一つ」と訴えることをマスコミは喜ぶが、それは理想論であり、人々は国境をなくすどころか、かつてあった国境を復活させようとしている。このことは、かつての朝鮮、チベット、沖縄で明白である。日韓併合を否定する朝鮮人が南北統一を実現できないのは、心の底で南北併合を拒否しているからだ。始皇帝や豊臣秀吉や徳川家康の論理では、「侵略」は「天下統一」であり、「独立運動」は天下を乱して乱世に戻す「暴動」である。暴動を制圧する国が暴動で成立し、テロと戦うと称する国がテロで成立した歴史を直視すべきだろう。

薬害エイヅ(エイズでなくエイヅ)問題では「血液製剤を国内で自給しろ」という声が上がり、餃子問題でも「中国産でなく国産を」という人が多くなり、「沖縄の米軍基地は不要」、「日本で銃規制を」、「日本に核は要らない」という声もある。これらは結局、日本が「鎖国」をしていた理由であり、日本がシナやアメリカと戦争をして守ろうとしたものであろう。
日本という国家の外から来る厄介なものを国境の外に戻して満足する日本の感性は、「国境なき地球市民」の理想論と矛盾する。日本と中国、日本とアメリカの国境がなければ、餃子でも基地でも平気で入ってくる。国境で止めたところでアメリカや中国で過ごす日本人のことを誰も考えない。
日本の輿論がまだまだきわめて国家主義的であり、始皇帝が夢見た天下統一を地球規模で実現するのは、まだ数百年、千年は先の話だろう。

アイスランドの歌手・ビョーク(Björk)が中国公演で「チベット独立」を叫んだらしい。これでチベットは海外アーティストへの規制を強めるらしい。
これは日本に支配されていたときの「三・一独立運動」と同じだ。
今、支配されている場合、独立は否定され、結果として独立すると独立運動は正当とされる。
歴史は結果論だ。
中国の歌手が沖縄で「沖縄独立」を叫んでも日本政府は何とも言わないだろう。

朝日新聞によると、吉川晃司は杉原千畝を「国の命令にさからって正義を貫いた」という意味で「ロックの精神」と讃美したが、ビョークもロックの精神を持った歌手であろう。
一方、「国の命令に背く」というのは食品や建築の偽装、自轉車の三人乗り、未成年者の飲酒や喫煙、路上喫煙など、あらゆる違法行為または条例違反、不祥事も含まれる。
2008年、北京五輪を前にチベットで暴動が起きた。これは暴動という意味では反日暴動、義和団の乱と同類である。
自称「反権力闘争」であろうと、それを鎮圧する側であろうと、結局は破壊、暴力、放火、殺人であることには変わりがない。

チベットの暴動(蜂起、動乱)に対する中国政府の姿勢は日中戦争当時の日本政府に似ている。中国人が暴動(蜂起、動乱)を起こすから、それを鎮圧するために日本は大陸に兵を送る必要があった。
また、中国政府にとってチベット人は中国人で、一部の中国の反乱分子のしたことで中国が批判されるのは理不尽だと言いたいだろう。しかし、假にチベット人が中国人であっても、その中国人が治安を乱したのは中国政府の監督不行き届きであって、それはかつての日本兵が中国でやったらしい軍規違反、戦闘行為(中国人の仲には私服兵もいたが)も含むだろう。
中国政府は今度のチベット問題で、かつて中国に手を焼いた日本軍の気持ちを少しは察するべきだろう。
こういう暴動(蜂起、動乱)は中国ではよくあることで、始皇帝が中国を統一したときも、趙や楚の生き残りが国を再建しようとした。チベット人の気持ちも同じだろうし、日本によって統治されていた朝鮮の独立運動も同じである。
中国政府は独立運動を「国家分裂」として批判しているが、たかが「国家」ごとき、分裂しようが統合しようが、気にしなければどうということはない。
また、中国がチベット独立や台湾独立(本当は人民共和国への不参加)の言論を異常なまでに制圧しようとすると、なおさらチベット人と台湾人は人民共和国の一員であることを拒否するようになる逆効果も考えられる。

朝日新聞はチベット人が起こした蜂起=暴動を「騒乱」または「デモ」と書き、漢族が2005年に起こした蜂起=暴動を「デモ」(08年4月3日)と書いている。単語の表層が違うだけで、シナ民族の反日感情もチベット人の反シナ感情も平等に考える必要があるだろう。
└→總論・参

前後一覧
2009年3/16