「車に気をつけて」というのを同じ表現で何十回、何百回も言っていると、聴いている側は意味を感じなくなって交通事故に遭う。それには「信号が青でも周りを確認して」とか、「道を曲がるときは何が通るか確認して」のように、毎回、表現を変えて忠告すると効き目があるだろう。
「火の用心」も同じで、毎回、表現を変えて、注意することが必要だ。
同じ内容を別々の表現で何度も言うと印象に残るが、ことばそのものが録音やコピーのように繰り返されると、人間は何も感じなくなってしまう。
同じ内容を別々の表現で何度も言うと印象に残るが、ことばそのものが録音やコピーのように繰り返されると、人間は何も感じなくなってしまう。
風見慎吾の娘が青信号を渡っているときにトラックにひかれて亡くなったニュースは記憶に新しい。
まず、トラックの運轉手であれば子供が多く通る住宅街で子供をひかないよう気をつけるのがプロとして当たり前である。
つねに自分が車にひかれる、または人をひいてしまう可能性を頭で想像しておく必要がある。
そして、社会全体、特に車を運轉する人は「子供の安全を最優先に守る」という公共的な意識を常に持っているべきである。
まず、トラックの運轉手であれば子供が多く通る住宅街で子供をひかないよう気をつけるのがプロとして当たり前である。
つねに自分が車にひかれる、または人をひいてしまう可能性を頭で想像しておく必要がある。
そして、社会全体、特に車を運轉する人は「子供の安全を最優先に守る」という公共的な意識を常に持っているべきである。
次に、歩行者は青信号であっても車がどの位置にあるか、どのスピードでどこへ移動しているか、車が出てきそうな曲がり角がどこにあるか、常に確認しておく必要がある。
また、明け方に外出する場合、多くの歩行者は車がいないと想って油断しているようだが、車を運轉する側は歩行者がいないと想って信号無視をして猛スピードを出しているので、気をつける必要がある。
歩行者は運轉する側の心理を想像し、予想して事故を避けるべきである。
車が大きい場合、そばによると運轉席から見えないので、距離を置く必要があるし、フロントガラス越しに運轉席を観るというのが有効である。
車が大きい場合、そばによると運轉席から見えないので、距離を置く必要があるし、フロントガラス越しに運轉席を観るというのが有効である。
日本では歩行者が「運轉手が自分たちを観てをよけてくれる」という甘い期待をして、歩いている最中に車がどの位置にいて、近づいているか遠ざかっているか確認しない人が多い。車が近付いても歩行者は「向こうがよけてくれるだろう」と想って何もしないで、その運轉手がわき見や飲酒をしているとひかれてしまうのだ。
自轉車で暗い道を走っていると、猫などが道を横切る場合がある。鹿などが多い地域では、鹿が山道を横断して車の犠牲になる(ただし、昔、奈良に行ったとき、鹿が人混みにまぎれて、青信号で横断歩道を渡っていた)。
人間以外の動物が道を渡る場合、車にひかれるのは、そこで立ち止ってしまうからである。人間であれば、遠くから車が来た場合、渡るのをやめるか、急いで渡ってしまえばひかれずにすむ。
ところは動物は道の中央で立ち止って様子を見てしまう。
人間以外の動物が道を渡る場合、車にひかれるのは、そこで立ち止ってしまうからである。人間であれば、遠くから車が来た場合、渡るのをやめるか、急いで渡ってしまえばひかれずにすむ。
ところは動物は道の中央で立ち止って様子を見てしまう。
動物は漢字で「動く物」であるように、草食動物にとっては天敵である肉食動物から「動く物」と想われないことが生きる鍵であり、だから、遠くから見て、木の葉や草むらにまぎれるような工夫をしている。
シマウマなど、ライオンが近づいたら、じっとして、植物か岩などと想わせ、それでも近づいてくると、相手は自分たちがシマウマ(=餌)だわかってしまっているので、逃げるというわけだ。
シマウマなど、ライオンが近づいたら、じっとして、植物か岩などと想わせ、それでも近づいてくると、相手は自分たちがシマウマ(=餌)だわかってしまっているので、逃げるというわけだ。
だから、道を渡る動物(人間以外)にとって、近づいてくる「自動車」は自分を食べようとする天敵であり、立ち止まれば動物だと想わず、よけてくれるだろうという前提でいるわけだ。しかも、自然界ではありえない速さなので、動物が逃げようとしたときはひかれている。
しかし、人間が車にひかれる理由も似たようなもので、青信号だと安心しきってしまい、ひかれる寸前まで車の接近に気づかない。
しかし、人間が車にひかれる理由も似たようなもので、青信号だと安心しきってしまい、ひかれる寸前まで車の接近に気づかない。
集団登下校に列に飲酒運轉の車が突っ込む事件があり、飲酒運轉は言語道断であるが、子供を引率している大人たちが車が近づくまで無防備だったのも悲劇の原因である。
少なくともその車は、曲がり角から急に出てきたのでない限り、子供たちと同じ道路上を走っていたはずで、歩きながら前と後ろをよく観ていれば気づいたはずだ。曲がり角では車も歩行者も一旦、止まるべきである。
少なくともその車は、曲がり角から急に出てきたのでない限り、子供たちと同じ道路上を走っていたはずで、歩きながら前と後ろをよく観ていれば気づいたはずだ。曲がり角では車も歩行者も一旦、止まるべきである。
日本人が旅行で中国に行くと、単独行動しようにも、信号がないので道路を渡れないと嘆く人が多い。現地に長く住めば、車が走るタイミングや速度を見計らって渡ることができるようになり、道が大きいと、道の途中にある車線の境目で立ち止まって左右を確認し、それで向こう側へ渡る。
車の中から見ると。地元の中国人が道の中で立ち止まり、車がその周りをよけて走っているのがわかる。
中国に慣れていない日本人はそれを見て驚くが、これは日本と中国の違いにすぎない。
車の中から見ると。地元の中国人が道の中で立ち止まり、車がその周りをよけて走っているのがわかる。
中国に慣れていない日本人はそれを見て驚くが、これは日本と中国の違いにすぎない。
自轉車のライトは自轉車に乗る人が周圍を観るためではなく、周りの歩行者や車の運轉手に自轉車の存在を教えるためにつけるのである。昔の笑い話を集めた本で、盲人が提灯を持って夜道を歩いている話がある。道で会った人が「見えないのになぜ提灯を持つのか」と訊くと、盲人は「私は提灯など不要ですが、これがないと前から来る人がぶつかります」と言う。これはギャグではなく、真面目な防犯対策である。
『ブラック・ジャック』に登場したハリ医者・琵琶丸によると、盲人は目が見える人と違って、夜道のほうが楽らしい。