比較するものが多くなり過ぎないよう、「いわき東基準」(山田世代1976年夏で高1)は省いた。「いわき東基準」は「アニメ基準」より1年先輩である。
「新潟明訓基準」(73年度生まれ、89年度~91年度高校在学、92年3月卒)は「『プロ野球編基準』」より3年先輩である。

 

 

 

山田世代誕生
「明訓入学基準」→1958年度(1958年4/2~1959年4/1)、「アニメ基準」→1961年度、「土井垣入団基準」→1962年度、「『大甲子園』基準」→1967年度、「『プロ野球編』基準」→1976年度
山田世代高校入学時の初期設定では、1958年5月5日山田太郎誕生。岩鬼正美は1959年4月1日誕生。この年、原辰徳誕生。藤村甲子園は4歳、江川卓は3歳であった。ちなみに、藤村甲子園は1954年5月5日誕生。
『大甲子園』では山田世代が1985年度で高3のようで、67年度生まれになる。山田は67年の子供の日、岩鬼は68年の4月1日生まれで桑田真澄と同い年。
『プロ野球編』では1976年子供の日に山田太郎誕生、岩鬼正美は77年4月1日誕生。76年は原辰徳が18歳の誕生日を迎え、王貞治が715号HRを打った年。また、76年には城島健司が生まれた。

 

 

 

中学3年時代
「明訓入学基準」→1973年度(1973年4月~1974年3月)、「アニメ基準」→1976年度、「土井垣入団基準」→1977年度、「『大甲子園』基準」→1982年度、「『プロ野球編』基準」→1991年度
『ドカベン』文庫5巻で鷹丘中学ナインの話から、当時、巨人の3塁は長嶋、捕手は森。
└→『野球狂の詩』で描く西暦1973年のドラフト

 

 

 

中学3年当時の岩鬼と夏子、山田太郎、そして妹・サチ子(当時、推定6歳)、監督・景浦秋男(鷹丘中学教諭)たちが後楽園で巨人×阪神戦を観戦した。
巨人の投手は堀内。王がサヨナラ本塁打。試合後、後楽園名物の的当てで、岩鬼の剛球が的を破り、ONを驚かせた。長嶋は背番号3。巨人ベンチに川上監督らしき人がいる(『男どアホウ甲子』終盤での巨人軍の絵と比べてみた)。
長嶋が現役で川上が監督だったのは74年のシーズンまで。原作で74年春に山田世代が中3から高1になるので、その基準では、この鷹丘中3年の時代設定は1973年であろう。
一方、アニメでは鷹丘中学3年の岩鬼たちが試合を観戦したのが、1976年10月11日、王貞治が715号本塁打を打ったとき。すでに巨人は第1次長嶋監督の2年目。当時、長嶋の背番号は90。
ちなみに、各基準のうち、「『プロ野球編』基準」の1991年度では球場が「東京ドーム」になっていないとおかしい。

 

 

 

高校1年春(中学3年3学期終了→高校1年1学期)
「明訓入学基準」→1974年春、「アニメ基準」→1977年春、「土井垣入団基準」→1978年春、「『大甲子園』基準」→1983年春、「『プロ野球編』基準」→1992年春
山田世代高校入学時の初期設定では、この年、山田、岩鬼、殿馬、里中が74年春明訓高校に入学。徳川監督と部員の会話から、王と長嶋が現役で、長嶋が引退直前の現役最終年(このときの高校生がプロになったとき、長嶋はすでに引退したあと)であることがわかる。
江川卓は74年春に作新学院高校を卒業し、法政大学に入学。

 

 

 

高校1年夏
「明訓入学基準」→1974年夏、「アニメ基準」→1977年夏、「土井垣入団基準」→1978年夏、「『大甲子園』基準」→1983年夏、「『プロ野球編』基準」→1992年夏
夏の予選
対白新戦で里中がリリーフで登板し、捕手が土井垣から山田に交代。東海高校との試合で岩鬼が悪球打ちを披露。

夏の甲子園
山田世代が徳川監督のもと、高1の夏の甲子園に初出場。74年夏の大会であれば、夏の甲子園は74年夏の第56回全国高等学校野球選手権大会。
準決勝で土佐丸と対戦し、試合で勝利するも、試合で里中が頭を負傷。途中から岩鬼が投げた。岩鬼は投球練習で巨人の堀内、阪神の上田、法政の江川のまねをした。
雨により決勝は1日延期。ここで作中では作新学院出身の江川卓が紹介され、江川は「現法大」とされた。つまり、いわき東との決勝戦は74年夏から77年夏まで。また、緒方勉以下、いわき東高校ナインの地元・いわき(磐城)市では廃坑を迎えていた。いわき市の炭鑛閉山は1976年のことである。
新潟明訓高校の夏の甲子園初出場は1991年。

 

 

 

高校1年秋
「明訓入学基準」→1974年秋、「アニメ基準」→1977年秋、「土井垣入団基準」→1978年秋、「『大甲子園』基準」→1983年秋、「『プロ野球編』基準」→1992年秋
微笑が轉校先を間違えて、明訓に入学。土門は微笑に代わって、谷津吾朗を捕手として横浜学院の野球部に入部させた。秋季大会では負傷で試合に出られない里中が明訓のキャプテン。関東大会から土井垣が監督で山岡がキャプテン。優勝旗盗難事件發覚。

 

 

 

徳川監督がクリーンハイスクールの監督になり、影丸とフォアマンが明訓に挑戦。
アニメでは、フォアマンは王貞治の756号HR(1977年9月3日)でハンク・アーロンの記録が破られたことへのかたき討ちのために来日し、クリーンハイスクールに入ったらしい(アメリカでは王貞治の本塁打の記録を「世界一」とは認めていないようなので、フォアマンが「リベンジ」を考える必要はないと想うが)。
関東大会で明訓は甲府、クリーン、赤城山と対戦。大会中に山田が記憶喪失になるが、試合で回復し、優勝旗も奪還。
土門と微笑はのちに1995年夏の球宴でバッテリーを実現させる。
ドラフトで大沢監督の日本ハムが土井垣(当時高3)を指名し、南海ホークス(『プロ編』だとダイエーホークス)が犬飼小次郎(同じく高3)を指名。
両者のプロ入りは9箇月後。
└→『ドカベン』学年別年表II

 

 

 

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08年10/28