1958年
水島新司漫画家デビュー。
山田世代高校入学時の初期設定では、1958年5月5日山田太郎誕生。岩鬼正美は1959年4月1日誕生。この年、原辰徳誕生。藤村甲子園は4歳、江川卓は3歳であった。
水島新司漫画家デビュー。
山田世代高校入学時の初期設定では、1958年5月5日山田太郎誕生。岩鬼正美は1959年4月1日誕生。この年、原辰徳誕生。藤村甲子園は4歳、江川卓は3歳であった。
1967年
『大甲子園』の山田世代が1985年度で高3、とすれば67年度生まれで、山田太郎は1967年5月5日生まれ、岩鬼正美は68年4月1日生まれ。
この学年には清原和博と桑田真澄がいる。
『大甲子園』の山田世代が1985年度で高3、とすれば67年度生まれで、山田太郎は1967年5月5日生まれ、岩鬼正美は68年4月1日生まれ。
この学年には清原和博と桑田真澄がいる。
1972年
『ドカベン』連載開始。
『ドカベン』連載開始。
1973年
山田世代高校入学時の初期設定(74年春入学)から1年さかのぼると、この1973年春に山田世代が中学3年に進級したことになる。江川卓は作新学院高校3年生になった。
『ドカベン』文庫5巻で鷹丘中学3年当時の岩鬼と夏子、山田太郎、そして妹・サチ子(当時、推定6歳前後)、監督・景浦秋男(鷹丘中学教諭)たちが後楽園で巨人×阪神戦を観戦した。巨人の投手は堀内。王がサヨナラ本塁打。試合後、後楽園名物の的当てで、岩鬼の剛球が的を破り、ONを驚かせた。長嶋は背番号3。川上監督らしき人物が巨人ベンチにおり、1973年であれば問題ない。アニメでは1976年の設定になっているが、「川上監督、長嶋現役」は1974年までである(→1976年の項目に続く)。
山田世代高校入学時の初期設定(74年春入学)から1年さかのぼると、この1973年春に山田世代が中学3年に進級したことになる。江川卓は作新学院高校3年生になった。
『ドカベン』文庫5巻で鷹丘中学3年当時の岩鬼と夏子、山田太郎、そして妹・サチ子(当時、推定6歳前後)、監督・景浦秋男(鷹丘中学教諭)たちが後楽園で巨人×阪神戦を観戦した。巨人の投手は堀内。王がサヨナラ本塁打。試合後、後楽園名物の的当てで、岩鬼の剛球が的を破り、ONを驚かせた。長嶋は背番号3。川上監督らしき人物が巨人ベンチにおり、1973年であれば問題ない。アニメでは1976年の設定になっているが、「川上監督、長嶋現役」は1974年までである(→1976年の項目に続く)。
1974年
山田世代高校入学時の初期設定では、この年、山田、岩鬼、殿馬、里中が明訓高校に入学。春の段階で王貞治と長嶋茂雄は現役だったが、当時の高校生がプロ入りする時点で長嶋は引退していると言われていたので、この新学期は1974年の春から。
夏の甲子園は第56回全国高等学校野球選手権大会。
江川卓は作新学院高校を卒業し、法政大学に入学。
↓
1974年4月~1978年3月(1977年度末)
江川卓が法政大学に在学。山田世代が徳川監督のもと、高1の夏の甲子園の準決勝で土佐丸と対戦し、試合で勝利するも、試合で里中が頭を負傷。里中の決勝出場が危ぶまれたが、雨により決勝は1日延期。ここで作中では作新学院出身の江川卓が紹介され、江川は「現法大」とされた。つまり、いわき東との決勝戦は74年夏から77年夏まで。また、緒方勉以下、いわき東高校ナインの地元・いわき市では炭鑛の廃坑を迎えていた。これは1976年のことである。
↑
1976年
いわき市の炭鑛が閉山。
山田世代高校入学時の初期設定では、この年、山田世代が高校3年に進級。翌年卒業してプロ入り後、開幕の時点で起工。
『大甲子園』で描かれた山田世代高3における横浜球場での夏の予選決勝は、この時代設定では実現不可能。
一方、『ドカベン・プロ野球編』の設定では1976年5月1日に山田太郎が生まれ、77年4月1日に岩鬼正美が生まれた。
1976年10月11日、王貞治が715号本塁打。(└→1973年の項目から続き)アニメでは鷹丘中学3年の岩鬼たちが試合を観戦したのが、王の715号の時期らしい。
└→1976年(2)
└→『ドカベン』生誕~鷹丘中学
山田世代高校入学時の初期設定では、この年、山田、岩鬼、殿馬、里中が明訓高校に入学。春の段階で王貞治と長嶋茂雄は現役だったが、当時の高校生がプロ入りする時点で長嶋は引退していると言われていたので、この新学期は1974年の春から。
夏の甲子園は第56回全国高等学校野球選手権大会。
江川卓は作新学院高校を卒業し、法政大学に入学。
↓
1974年4月~1978年3月(1977年度末)
江川卓が法政大学に在学。山田世代が徳川監督のもと、高1の夏の甲子園の準決勝で土佐丸と対戦し、試合で勝利するも、試合で里中が頭を負傷。里中の決勝出場が危ぶまれたが、雨により決勝は1日延期。ここで作中では作新学院出身の江川卓が紹介され、江川は「現法大」とされた。つまり、いわき東との決勝戦は74年夏から77年夏まで。また、緒方勉以下、いわき東高校ナインの地元・いわき市では炭鑛の廃坑を迎えていた。これは1976年のことである。
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1976年
いわき市の炭鑛が閉山。
山田世代高校入学時の初期設定では、この年、山田世代が高校3年に進級。翌年卒業してプロ入り後、開幕の時点で起工。
『大甲子園』で描かれた山田世代高3における横浜球場での夏の予選決勝は、この時代設定では実現不可能。
一方、『ドカベン・プロ野球編』の設定では1976年5月1日に山田太郎が生まれ、77年4月1日に岩鬼正美が生まれた。
1976年10月11日、王貞治が715号本塁打。(└→1973年の項目から続き)アニメでは鷹丘中学3年の岩鬼たちが試合を観戦したのが、王の715号の時期らしい。
└→1976年(2)
└→『ドカベン』生誕~鷹丘中学
1977年
9月3日、王貞治が756号本塁打。アニメの『ドカベン』ではハリー・フォアマンがこれに対抗して日本に留学する決意をし、千葉のクリーンハイスクールに入学した(轉校か)。
影丸とフォアマンがクリーンの野球部員として明訓と対戦したのは山田世代高1秋の関東大会準決勝、場所は銚子球場であった。当時、明訓は徳川監督から土井垣に移って間もない時期。
9月3日、王貞治が756号本塁打。アニメの『ドカベン』ではハリー・フォアマンがこれに対抗して日本に留学する決意をし、千葉のクリーンハイスクールに入学した(轉校か)。
影丸とフォアマンがクリーンの野球部員として明訓と対戦したのは山田世代高1秋の関東大会準決勝、場所は銚子球場であった。当時、明訓は徳川監督から土井垣に移って間もない時期。
1978年
4月4日、横浜球場が開場。この年から大洋ホエールズが横浜大洋になり、そのホーム球場になった。横浜球場は、のちに山田世代高3の夏の予選の決勝、明訓×白新戦の試合場となり、95年夏のプロ野球オールスターゲームでは明訓5人衆が勢ぞろいした。
78年に円広志の「夢想花」がヒット。高2夏の選抜で岩鬼がこれを歌った模様(次項参照)。
この78年の秋、ドラフト会議で日本ハムが土井垣将を、南海ホークスが犬飼小次郎を指名(9箇月後、79年夏の入団から逆算)。日ハムの大沢監督は明訓高校を訪れた。
阪神の田淵はこの年を最後に西武に移籍。
4月4日、横浜球場が開場。この年から大洋ホエールズが横浜大洋になり、そのホーム球場になった。横浜球場は、のちに山田世代高3の夏の予選の決勝、明訓×白新戦の試合場となり、95年夏のプロ野球オールスターゲームでは明訓5人衆が勢ぞろいした。
78年に円広志の「夢想花」がヒット。高2夏の選抜で岩鬼がこれを歌った模様(次項参照)。
この78年の秋、ドラフト会議で日本ハムが土井垣将を、南海ホークスが犬飼小次郎を指名(9箇月後、79年夏の入団から逆算)。日ハムの大沢監督は明訓高校を訪れた。
阪神の田淵はこの年を最後に西武に移籍。
1975年(74年春、山田世代明訓入学基準)
~1978年(アニメの76年中3~77年高1基準、田淵阪神在籍の最終年)
~1979年(79年夏、土井垣プロ入り基準)
山田世代高2春の選抜(3月から、厳密には山田世代高1の3学期から)では、田淵と掛布が山田の打撃練習を見学。明訓は桜島、大砂丘と対戦し、江川学院の中二美夫が山田を5打席連続敬遠。信濃川との対戦で里中はつき指をするが、さとるボールを開發。
土佐丸の犬神が「腕がのびるように見えるからくり」で山田を苦しめたが、見抜かれ、次に背面投げ。殿馬の「秘打・円舞曲別れ」で明訓勝利。
(└→1978年の項目から続き)アニメではこの試合、眼鏡打法で打った岩鬼が「夢想花」を歌っていた(と想う)。
~1978年(アニメの76年中3~77年高1基準、田淵阪神在籍の最終年)
~1979年(79年夏、土井垣プロ入り基準)
山田世代高2春の選抜(3月から、厳密には山田世代高1の3学期から)では、田淵と掛布が山田の打撃練習を見学。明訓は桜島、大砂丘と対戦し、江川学院の中二美夫が山田を5打席連続敬遠。信濃川との対戦で里中はつき指をするが、さとるボールを開發。
土佐丸の犬神が「腕がのびるように見えるからくり」で山田を苦しめたが、見抜かれ、次に背面投げ。殿馬の「秘打・円舞曲別れ」で明訓勝利。
(└→1978年の項目から続き)アニメではこの試合、眼鏡打法で打った岩鬼が「夢想花」を歌っていた(と想う)。
渚と高代がレギュラー入り。負傷で戦線離脱していた里中が対東海高校戦に駆け付け、渚の救援として復帰。
白新との試合で微笑が外野で捕球したが、ワンバウンドかダイレクトかを観たただ一人の審判が暑さのために倒れ試合が中断。ここで客席のファンの一人がキャッチの瞬間を撮影していたが、ポラロイドでなく自宅での現像が必要だった。最終的にダイレクトキャッチの瞬間を観た審判がグラウンドに駆け付け、アウトの判定。この時代、デジタルカメラも携帯電話の写真機機能もなかったものと想われる。
土門が明訓を相手に善戦するが惜敗。明訓は、負けたと想ったところで相手の野手がボールをこぼして助かることが何度かあった。横浜学院の土門はこの年で高校3年。
白新との試合で微笑が外野で捕球したが、ワンバウンドかダイレクトかを観たただ一人の審判が暑さのために倒れ試合が中断。ここで客席のファンの一人がキャッチの瞬間を撮影していたが、ポラロイドでなく自宅での現像が必要だった。最終的にダイレクトキャッチの瞬間を観た審判がグラウンドに駆け付け、アウトの判定。この時代、デジタルカメラも携帯電話の写真機機能もなかったものと想われる。
土門が明訓を相手に善戦するが惜敗。明訓は、負けたと想ったところで相手の野手がボールをこぼして助かることが何度かあった。横浜学院の土門はこの年で高校3年。
1979年
この年から田淵は西武ライオンズに移籍。
高2夏の甲子園で明訓が弁慶高校と対戦。観客が客席に入りきれず、ラッキーゾーンで観戦。明訓が敗れ、大会中に土井垣が日ハムに、犬飼小次郎が南海ホークスに入団。土井垣が初打席初本塁打。甲子園では決勝に進出した通天閣高校が甲府学院を破り、優勝。土門が谷津とともに敗戦後の明訓を訪れた。土門も高校球児としては「引退」し、次に横浜学院の監督になる。
秋になって明訓高校の数学の太平教諭が野球部監督に就任。
太平明訓は雲竜が風の又三郎となった東海や中山畜産と対戦。
白新の不知火が山田のバットを封じ、岩鬼も失恋ショックで触身球を受けるが、特別代走・香車の俊足で得点。夏子の指文字の意味を勘違いした岩鬼がど真ん中を打ってバットがボールより先に飛ぶ本塁打。試合は明訓勝利。
東郷学園の小林も観戦していた。
└→『ドカベン』年表II
この年から田淵は西武ライオンズに移籍。
高2夏の甲子園で明訓が弁慶高校と対戦。観客が客席に入りきれず、ラッキーゾーンで観戦。明訓が敗れ、大会中に土井垣が日ハムに、犬飼小次郎が南海ホークスに入団。土井垣が初打席初本塁打。甲子園では決勝に進出した通天閣高校が甲府学院を破り、優勝。土門が谷津とともに敗戦後の明訓を訪れた。土門も高校球児としては「引退」し、次に横浜学院の監督になる。
秋になって明訓高校の数学の太平教諭が野球部監督に就任。
太平明訓は雲竜が風の又三郎となった東海や中山畜産と対戦。
白新の不知火が山田のバットを封じ、岩鬼も失恋ショックで触身球を受けるが、特別代走・香車の俊足で得点。夏子の指文字の意味を勘違いした岩鬼がど真ん中を打ってバットがボールより先に飛ぶ本塁打。試合は明訓勝利。
東郷学園の小林も観戦していた。
└→『ドカベン』年表II