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90~93年94~95年、96~98年I、98年II~99年(~2000年)

1996年8月10日、『神はサイコロを振らない』(LINK 先は Wikipedia)によると、長崎に向かっていた東洋航空402便が乗客28名と乗務員を乗せたまま消滅。機体も死体も發見されず、2箇月後、当時の運輸省は乗客と乗務員の死亡を確定。実は飛行機は10年後の未来にタイムスリップしていた。
└→2006~2007年――『1リットルの涙』、『神はサイコロを振らない』

 

1996年、中国が核実験。日本外務省からの抗議に対し、中国は「誰が何と言おうと、強くなるために核実験をする。弱い中国が何をされたか、日本は知っているはずだ」と開き直った(『SAPIO』08年4/23号、櫻井よしこ氏)。それなら、日本も核武装して「誰が何と言おうと、強くなるために核実験をする。弱い日本が何をされたか、中国は知っているはずだ」と言えばいい。

 

西暦1997年はダイアナ妃の没年。
映画『クイーン』でこのときの英国王室の様子が描かれているらしい。
東京メッツの岩田鉄五郎と水原勇気が現役復帰した。
1997年にBAR来夢来人が復活。

 

1997年、香港が返還された。
艾敬が「我的1997」を歌っていたのだが、10年後の2007年に続編として「我的1997和2007」という歌も歌ったようだ。

 

1998年、岩田鉄五郎が選手兼任監督になり、国立玉一郎のむすめ・国立珠美がメッツに入団。

 

1998年5月、津川雅彦が東條英機を演じた映画『プライド・運命の瞬間(とき)』公開。東映の労働組合や文化人で作る「映画『プライド』を批判する会」がこれを「軍国主義美化」として、15日に東映に対し、23日からの公開の中止を申し入れた。この上映中止を求める運動の中心人物だった全東映労連の高橋邦夫副委員長は、2008年に映画演劇労働組合連合会の中央執行委員長として、映画『靖国 YASUKUNI』(李纓Li Ying監督)の上映自粛を「日本映画史上かつてない恥ずべきこと」として、『プライド』のときとは全く逆に『靖国』の上映を求めている(『SAPIO』2008年5/14号、井沢元彦SAPIO'S EYE)。

 

私の記憶では、井沢氏がかつて『SAPIO』に書いた文によると、日ごろ、「教科書検定は違憲」と言っていた人が、扶桑社の歴史教科書が出たときには「検定を強化すべきだ」と主張した例もあるらしい。

 

1996年、都市博が開催される予定だったが、前年に都知事になっていた青島幸男によって中止になっていた。
『こちら葛飾区亀有公園前派出所』日暮熟睡男(ひぐらしねるお)は開催予定地の地下で眠っていたところを掘り出され、両津勘吉から都知事が青島幸男と聴かされ、初めは信じられなかった。また、麗子の使う携帯電話を当初、おもちゃと認識し、両津から電話だと聴かされ、驚いていた。
日暮巡査は夏の五輪が開かれる年に目覚めるが、それ以外はほとんど、寝ている。
1996年には予知能力を生かした仕事のあと、プールの飛び込みと水泳で新記録を出し、五輪出場有望と期待された。

 

96年の3月、沢尻エリカは小学4年生になったはずだが、このとき、池内亜也が小学校に入学した。
96年は藤子・F・不二雄が9月23日に没した年である。

 

『ターミネーター』によると1997年、人間と機械との戦争で30億の人口が失われる。機械の側が人間の側のリーダー・ジョンの母親・サラを殺そうと1984年の世界にターミネーターを派遣。これは阻止され、次に10歳の少年になったときのジョンを始末するため、機械の側が液体金属のターミネーター・T-1000を1994年の世界に派遣するが、リーダー自身がターミネーターを派遣して阻止。

 

Wikipedia フィクションのできごと
1996年
1997年
1998年

 

2015年10月05日(月)
@kyojitsurekishi BS-TBS 浅見光彦シリーズ6「小樽殺人事件」
昭和59年(1984年)が12年前。劇中の時代は平成8年(1996年)。放送当時と同じか。
#辰巳琢郎
#藤谷美紀
#高橋惠子
#峰岸徹
posted at 11:37:18

 

追加

『ドカベン プロ野球編』22巻

1999年(平成11年)2月15日初刊

1998年(平成10年)の夢の球宴(オールスターゲーム)で元新潟明訓高校の小林幹英(当時・広島カープ)が登板。山田(西武ライオンズ)、岩鬼(ダイエーホークス)、殿梅(オリックスブルーウェーブ)と対戦。里中智(パ・リーグ、千葉ロッテマリーンズ)と微笑三太郎(セ・リーグ、読売ジャイアンツ)も出場。

球宴では不知火守(日本ハムファイターズ)と山田がバッテリーを組み、後半戦の日ハム対西武の私大ではでは不知火と土井垣将(元新潟明訓)がバッテリーを組んで山田と対戦した。

 

平成31年tw

 

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平成10年、長野五輪開催。フィギュアスケートではタラ・リピンスキー、ミシェル・クワン、陳露がメダルを獲得。荒川静香も初出場し、荒川静香は8年後の平成18年のトリノ五輪で金メダルを獲得。 長野五輪では日の丸飛行隊が活躍した。しかし長野組への期待が大きく、平成14年のSalr Lake City、平成18年のトリノで長野五輪入賞者が限界にさしかかり、荒川静香によって救われた形となった。年齢制限でトリノに出られなかった浅田真央が平成22年のバンクーバー五輪(銀メダル)、平成26年のソチ五輪に出場した。 長野では昭和39年(西暦1964年)の東京五輪でも軽井沢が乗馬の会場の一つになっており、長野五輪ではカーリングの会場になった。軽井沢は20世紀の日本における夏と冬の五輪の会場になったわけだ。 なお、昭和47年(1972年)に冬季五輪の開催地となった札幌は令和3年の夏季東京五輪(2度目)でマラソンの会場になっている。 音楽面では平成1桁のJ-POPを象徴した小室哲哉の音楽のブームが一段落し、前年(平成9年)に「愛の種」でインディーズデビューしていたモーニング娘が平成10年に「モーニングコーヒー」でメジャーデビュー。 更に宇多田ヒカル、浜崎あゆみ、Kiroroといった逸材がデビューした。

 

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2008年9/16(Yahoo!Blog)