角倉了以という人物 | 京こね☆ニュース

京こね☆ニュース

京都の小ネタ・ニュースばかりを集めた「京こね☆ニュース」!
2024年は ”京都こねたクイズ” 1日1問クイズに挑戦!!

昨日、特別客員研究員の勉強会があり、そこで担当教授から思いがけない


オファーをいただきました。


それは、来年1月に開催される角倉了以の研究会にゲストとして講演して


ほしいというものでしたえっ


保津川下りを研究する中で、保津川を開削した角倉了以は切っても切れない人物。


ですが、ただの研究員、しかもまだ始めてから半年しかたっていないのに、


自分が講演などさせて頂いてもいいのだろうかと思いました。


しかも、講演時間は40分ビックリマーク


特別客員研究員の発表(10分?)より、はるかに長い・・・


でも、こんな機会もないし、人前で長く話すことも、これからの人生の中で


プラスになるはずと思い、お引き受けしました。


そこで、本日のブログは、研究の原点に返り「角倉了以」という人物を


改めてご紹介してみたいと思いますニコニコ




角倉了以は、戦国時代まっただ中の1554年京都で生まれます。


元々の姓は、吉田と言い、室町幕府のお抱え医師をつとめた家系で、


その財で土倉(金融業者・現在の質屋のようなもの)を営んでいました。


了以は医者ではなく、土倉の修行をし、安南(現在のベトナム)貿易を開始。


その後、国内のいろいろな河川の開削工事へと関わります。


まず、最初に行ったのは大堰川。


大堰川というのは、桂川・大堰川・保津川と流域地域によって呼び名が


異なるのですが、了以が開削したのは、現在の南丹市日吉町から


渡月橋付近までとされています。


さて、何度も「開削」という言葉を使っていますが、


「開削」とは、「土地を切り開いて道路や運河などを通すこと」となっています。


平安京ができる前から、筏は流していたものの、巨岩石・急流のため、


舟で通ることができなかった大堰川を、私財を投じて岩を取り除き、人工的に


川の流れを抑制することで、舟を通れるようにしたのです。


その結果、米をはじめとする穀物、丹波の名産品などを、時間をかけずに


運ぶことができるようになりました。


大堰川以外にも、京都の高瀬川も私財を投じて開削し、幕府からの命令により


富士川・天竜川等の開削も行い、「京の三長者」になるまでになったのです。


事業は息子へと引き継がれ、了以は1614年に亡くなりました。



ちなみに、了以が亡くなったのは、本日最終回を迎える水戸黄門様が


生まれる14年前のこと。


現在のように、計測機械もない、重機もない時代。


水の上にある岩は、烈火で焼いた後に砕くという作業を延々と繰り替えし、


水の下にある岩は、数十人で引き上げ、投下して粉砕するという手段を


とっていたようです。


この作業をわずか5か月でやってのけたというわけですから、


了以はすごい人物です。


なのに、地元亀岡では、知名度低いような気もしますが・・・汗




講演も控えているし、来年も「保津川下りの歴史」の研究を気合いを入れて


頑張っていきたいと思いますチョキ