みなさんこんにちは。前回からの続きです。
4月13日(日)に開幕した「EXPO2025 大阪・関西万博」。通算15回目となった5月29日(木)の訪問記をお送りしています。
我が国の間とも、その歴史の深さをあちこちで感じる「中国パビリオン」を観覧しています。

ただいま、2階の展示へと上がろうとするスロープ。その合間には、日本と中国との長い歴史を作って来た、さまざまな人物たちやものごとの一幕が、立派な木彫りで飾られていました。

ところで先日来、しつこく?述べておりますが、パビリオン正面に掲げられていた巨大木簡に見つけた「徳不孤 必有隣(とくは こならず かならず となりあり)」という、論語の一節。
これに加え、なんと偶然なことかとびっくり仰天したのが、この人々が集うシーンでした。



そして、その二人の間に立つ人物は佐伯勇(さえき・いさむ、1903-1989)という実業家。えっ、この人物も日中の歴史に関係があったのか、と驚きます。

佐伯氏は愛媛県出身。東京帝大(現在の東京大学)を卒業後、昭和2年に近鉄の母体会社となる「大阪電気軌道(大軌)」に入社します。


沿線の中小私鉄多数を買収し路線規格を大幅に向上。さらに先の「大阪万博(1970年)」を機に、伊勢志摩一帯を今日に至る一大リゾート地に発展させるなど、鉄道以外の各方面でも事業の拡大や発展に尽力したことから、近鉄中興の祖と呼ばれる人物です。ここまで、出典①。
また、プロ野球がセ・パ2リーグに分立した際新規にこれにも参入。「近鉄パールス(→近鉄バファローズ→現、オリックス・バファローズ)」を創設、死去するまで名物オーナーとして球界の発展に尽力したことでも知られています。1990(平成2)年、野球殿堂特別表彰。
1989(平成元)年10月14日、9年ぶりにパ・リーグ制覇を果たし、胴上げされる近鉄・仰木彬監督。オーナーを務めていた佐伯氏はこの9日前に急逝、歓喜の瞬間を見届けることは出来なかった。出典②。
そして、本題の佐伯氏と中国との関係については、大阪商工会議所会頭を1971年から1981年まで10年間務めた間、会頭就任直後に中国を訪問し、翌年の国交回復の足がかりを作ったといいます。さらに掘り下げます。以下、出典③。

昭和47年秋、多年の念願であった日中国交正常化が実現した。これに先立ち昭和46年9月、関西財界訪中団(団長=佐伯勇会頭)が組織され、中国との懇親が行われた。これが正常化へのきっかけともなった。図説は出典④。

関西は歴史的に中国との関係が深い。それだけに過去30数年の断絶をとり戻すには関西にふさわしい役割であった。この正常化を機会に佐伯会頭が昭和47年9月、議員総会に大阪で中国博を開こうと提唱、自らこの実現に邁進した。
さっそく関経連、工業会、同友会、関経協ら在阪経済5団体と連盟で博覧会開催の要望をまとめ政府等関係当局に働きかけ、協力の約束をとりつけた。一方、中国側にも来日した要人らに要望するとともに、昭年48年1月、佐伯会頭自ら訪中し、中国側の責任者に説明し、その熱意を訴えた。
中国展の概要
●主催/中華人民共和国国際貿易促進委員会
●会期/49年7月13日(土)~8月11日(日)
●会場/万博記念公園内(大阪万博跡地)
●展示内容/・第1展示館(7,200平方m)=日中友好展示、農林漁業、重・軽工業部の展示。・第2展示館(万博美術館)=手工芸品部門、文化部門。・劇場(万博記念ホール)=映画紹介。・中国特産物記念即売場
●入場者/260万6,320人

たった一ヶ月の会期に関わらず、入場者が260万人を超えるという、大変な人気ぶりだったようで、この短期間に入場者数を勘案すると、この夢洲万博と変わらないほどです。
しかし当時、日本人から中国というお国には、大変な感心があったんですね。そういったこともあり、佐伯氏はその後にも中国との友好関係を築いて行ったようでした。出典⑤。
千里の万国博会場跡で中国展が開催された翌年の1975(昭和50)年11月、近鉄が手がけていた大工事が完成します。紀伊半島の付け根、三重県の北端・布引山地を東西に貫く全長5652mにも及ぶ「新青山トンネル」の開通でした。
西青山にて。中央が佐伯氏。以下、出典①。

しかしながら1971(昭和46)年10月、その単線区間のトンネル入り口で特急列車同士が正面衝突し、多数の死者・重軽傷者を出すという大事故が発生します。
近鉄はこの事故をきっかけに、単線区間を含む区間を、新規に複線トンネルを掘削した上で、直線区間の新ルートへ全面的に切り替えることを直ちに決定。
「新青山トンネル」の工事がはじまりました。

そして、事故翌年から3年あまりの工期を経て、悲願の「新青山トンネル」は竣工。同時に「大阪線」はすべて複線化されたのでした。

5652mにも及ぶ「新青山トンネル」の大阪側の坑口にはその竣工を記念し、佐伯氏がしたためた扁額が令和の現在も掲げられています。
それが「徳不孤(とくは こならず)」。
そう、先ほどパビリオン入り口の木簡に記されていたものです。
難工事の陣頭指揮を取った佐伯会長が、これまでの中国との深い友好関係やさまざまな典拠に思いがあってこその揮毫だったのでしょう。
冒頭でも触れましたが、論語の「徳不孤(とくは こならず、徳のある人は孤独ではない)」は「必有隣(かならずとなりあり、必ず同じく徳のある人が隣に有る)」と続きます。
これは俗談ですが、「孤独=単線」と考えると「必有隣=必ず隣にレールがある」。つまり複線になってこそ、このトンネルの意味がある。大事故を受けての、長大な複線の新トンネルの完成。氏の深い意味があるのかなと感じます。
次回に続きます。
今日はこんなところです。
(出典①「近畿日本鉄道 80年のあゆみ」近畿日本鉄道編・発行 平成2年10月)
(出典②YouTube「1989.10.14【生中継】近鉄バファローズ優勝試合」)
(出典④「大阪商工会議所」公式サイト)
https://www.osaka.cci.or.jp/Shoukai/Rekishi/06.html
(出典⑤「近畿日本鉄道 最近20年のあゆみ」近畿日本鉄道編・発行 昭和55年10月)