JR西日本「乗ってみよう北陸 WEB早特きっぷ」で行く北陸新幹線と越中富山を乗り鉄の旅〜その13 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。


今春あらたに開業した「北陸新幹線 金沢〜敦賀間」に初乗りかたがた、開業に合わせて限定発売されたチケットレス企画乗車券「乗ってみよう北陸 WEB早特21」なるきっぷで、富山周辺を日帰り乗り鉄した道中記をお送りしています。



ただいま「雨晴海岸(あまはらしかいがん、富山県高岡市)」。

高岡から「JR氷見線(ひみせん)」に乗ること20分ほど、富山湾ぎりぎりに広がる風光明媚な観光名所に足を運んでいます。


ところで、前回記事の最後でこの雨晴海岸はじめ、越中富山の豊かな海と山の自然を、数々の和歌にして「大伴家持(おおとものやかもち)」が詠んだことも知られている、と触れました。これについても取り上げてみたいと思います。



「家持」とは、奈良時代に中央政府の官吏、また、歌人として活躍した「大伴家持(?-785)」のことです。


日本最古の和歌集「万葉集」にも、家持が拵えた情緒豊かな和歌が幾つも収録されていることで広く知られているという人物。歴史の授業では必ず登場します。出典①。



高級官吏(現在でいうと国家公務員)の家に生まれた家持は、命によって当時中央政府だった奈良の都から、遠くここ越中国に国司(現在の都道府県知事)として赴任して来たのでした。


家持は、海や山の自然豊かなこの赴任先の越中を殊のほか気に入っていたようで、数々の和歌を詠みました。



先ほど、高岡駅で見かけた路面電車の「万葉線」。その名称はまさしく、それにちなんだものなのでした。万葉線高岡駅にて。



家持が越中での本拠を構えたのが、これも先ほど通って来た「伏木(ふしき)」。ここには越中の「国司館(現在では知事公舎、に当たるでしょうか)」が置かれていました。



では、前回記事に引き続き「各駅停車全国歴史散歩17 富山県(北日本新聞社編・河出書房新社刊 昭和54年7月発行)」、「伏木」の項から。



回船問屋の栄華
伏木

国庁跡

伽藍の横に「国廳所(国庁所)」ときざんだ自然石がある。大伴家持が越中国司として執務したところである。当時、都では国をあげて東大寺大仏建立の一大事業にとりくんでいた。東大寺の経済をささえる台所として脚光をあびていたのが北陸であった。(後略)



越中を彩る大伴家持

伏木から氷見にかけては、越中の歴史の宝庫である。伏木の名は「府敷」すなわち国府から転じたといわれるように、伏木には越中の国府がおかれ、国司の館があった。29歳の大伴家持が越中守に任ぜられたのは天平18(746)年であった。在任はわずか5年だったが、家持が「万葉集」にのこした数々の歌は、越中の歴史にきらびやかな彩りをそえることになった。


あゆの風 いたくふくらし 奈呉のあまの つりする小舟 漕ぎかくる見ゆ

(あゆの風が激しく吹いているらしい。奈呉の海人たちの釣りをする小舟が漕ぎ進むのが、高波の間から見え隠れしている)


春の苑 くれなゐ匂ふ 桃の花 下照る道に 出で立つをとめ

(春の庭園が紅色に美しく照り映えている。桃の花の下まで咲き照る道に、出て佇む娘子よ)



「万葉集」にはこの周辺の地名が数多く登場し、後世、家持をしのんでたてられた歌碑は十指に余る。(後略、P166)



家持の日々

あゆの風(呉西=ごせい。県央の呉羽丘陵から県西部の地域を指す=で北東風のことを、あいの風またはあゆの風という)をうたい、「葦付(あしつき。海藻の一。古来から食用とされていた)」「都万麻(つゆま。タモノキとも。現代では街路樹や建材として多用。高さは15mを超えるものもある)」など越中独特の植物に目をつけ、風土に親しんだ。グーグル地図より。


朝床に 聞けば遙けし 射水川 朝漕ぎしつつ うたふ船人(朝の床で聞くと遥かに遠くに聞こえて来る。射水川を朝、船を漕ぎながら歌う船人の声だ。)


おおらかで余韻滔々としたこの歌は、いまの伏木観測所付近にあった国守館で詠んだといわれている。(後略、P172-173)




先日のこちらの記事でも触れましたが、かつての「JR北陸本線」を継承したのは、第三セクター「あいの風とやま鉄道」。


「あいの風」という、越中に海山の幸をもたらす吉祥の海風について家持が詩に残しているものが、社名になったことがわかります。





その名称は一般公募から選ばれたそうですが、家持の時代からすでにその名があったとは。大変な歴史の深さと、土地への愛着を感じるエピソードです。富山にて。



家持は数々のうたをのこし、天平勝王3(751)年、少納言に任ぜられて帰京した。1200年の歴史のあとに、家持はあざやかに生きている。(P173-174)




奈良の都に呼び戻された家持はその後、大納言という役職にさらに出世を果たします。本職は有能なお役人だったのですね。出典①。


国司としてはわずか数年の越中赴任だった家持ですが、当地に対するその深い愛情は詩となって、令和の今日まで受け継がれている…なんともロマンある話しです。きれいにまとめてみました(苦笑)



さて、義経岩と海岸から再び、氷見線と国道を渡ったところには「道の駅雨晴」があります。こちらも、観光客には人気の施設だというのですが。


次回に続きます。

今日はこんなところです。


(出典①「図説日本史通覧」黒田日出男監修・浜島書店編・刊 2014年2月発行)

(和歌意訳出典「高岡市万葉歴史館」ホームページ)