JR西日本「乗ってみよう北陸 WEB早特きっぷ」で行く北陸新幹線と越中富山を乗り鉄の旅〜その12 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。


今春あらたに開業した「北陸新幹線 金沢〜敦賀間」に初乗りかたがた、開業に合わせて限定発売されたチケットレス企画乗車券「乗ってみよう北陸 WEB早特21」なるきっぷで、富山周辺を日帰り乗り鉄した道中記をお送りしています。



日帰り旅は、高岡から「氷見線(ひみせん)」に乗り、富山湾に沿って能登半島を北上。終着の「氷見駅」から2つ手前の「雨晴駅(あまはらしえき、富山県高岡市)」で下車しました。

このあたり、富山湾ぎりぎりを走るという実に風光明媚なところ。快晴の夏空に、澄み渡った海が実に美しいです。



さて、その「雨晴駅」から高岡方向に国道を数分戻ったところには、右に「道の駅」と、海側にはなにやら鬱蒼とした古樹が控えています。



それでは、この「雨晴海岸」については…
今回の旅でも登場、全国47都道府県を駅から歩いてその歴史を詳説してくれる、シリーズ書籍「各駅停車全国歴史散歩17 富山県(北日本新聞社編・河出書房新社刊 昭和54年7月発行)」より拾ってみます。


老婦が守る武田家

雨晴


義経の雨晴岩

雨晴駅の東、大きな岩山が海につきだし、年経た松がつばさをひろげるように緑のかげをおとしている。文治3(1187)年、義経一行が鎌倉幕府のきびしい追討をのがれ、奥州へ落ちのびる途中、この岩の洞穴にはいって雨の晴れあがるのを待った。雨晴の地名はこれに由来するものといわれる。



道の駅から国道と「氷見線」をはさみ富山湾。踏切がありますので、これを渡ってみます。




これが、雨晴海岸の名跡のひとつ「義経岩」です。そう、あの鎌倉時代の武将「源義経(1159-1189)」にまつわることがわかります。

「越中史徴(えっちゅうしちょう。郷土作家・森田柿園=もりた・しえん=1823-1908 が記した越中国の歴史一覧を記した著)」にある。





「其岩いと大なるものにて、上に松など生へり、岩の下はいと広く、いかさま十人十五人位の雨宿りはせらるべく覚ゆ。義経が腰かけ石、或いは弁慶のまな板石とて同所にあり(意訳:その岩はとても大きなもので、その上には松などが生えていて岩の下はとても広く、だいたい10〜15人くらいは雨宿り出来る様子だろうか。義経が腰かけた岩、あるいは弁慶がまな板にした岩さえここにある)」とある。




岩下に「この下よしつね公 雨はらし」の文字を刻んだ石碑がたち、かたわらに義経の像という、高さ1メートルほどの石像を祀った堂祠がある。毎年6月7日、近くのひとびとが岩下に旗をたてて「義経まつり」を催している。



このあたりは氷見線沿岸でもっとも眺めのすばらしいところである。義経岩から少し離れて、男岩、女岩が形よく波間にうかび、それにしたがうように小さな岩が点在する。




海岸に降りますと、整った形の岩がちょこんと乗った小島が絵になります。これが「男岩」。

馬なめて いざ打ち行かな 渋谷の 清き磯みに 寄する波見に

(馬を並べて、さあ出かけよう。渋谷=しぶたに。雨晴海岸周辺をこう呼んでいた=の清らかな磯辺に打ち寄せる波を見に)大伴家持詠。




冬でしたら、背景に冠雪した立山連峰や剱山がさながら屏風のよう。これは絶景ですね。

ところで、文中は「家持の詩情をかきたてた景観だけのことはある」と締められています。(後略、P178)


「家持」とは、奈良時代・天平文化を代表する日本最古の歌集「万葉集」に、数々の和歌が収録されている歌人「大伴家持(おおとものやかもち、?-785)」のことです。出典①。

実は、義経岩や富山湾はじめ美しい自然の越中と、家持には深い関係があったといいます。

次回に続きます。

今日はこんなところです。


(出典①「図説日本史通覧」黒田日出男監修・浜島書店編・刊 2014年2月発行)