みなさんこんにちは。前回からの続きです。
「北陸新幹線 敦賀〜金沢間開業」と入れ替わり、長年親しまれた在来線特急が姿を消した、敦賀から先の「北陸本線」。
全国的にも稀少な「特急街道」を最後に味わいたいと、大阪発「特急サンダーバード」に乗り、昨年11月に石川・金沢周辺をさまざま日帰り乗り鉄した際の道中記をお送りしています。
北陸鉄道浅野川線の終着駅、内灘から砂丘までの距離は、ごくわずかである。同駅から、北の方向へほぼまっすぐ、緩やかな坂を登りつめ砂防林を抜けると、こつ然と日本海が広がる。遠くシベリアにまでつながるはるかな海である。
その海を区切って、金沢市粟崎町から河北郡宇ノ気町(うのけまち。現在はかほく市)まで続くのが内灘砂丘。
幅約1キロ、延長10キロ、標高60メートルで海と陸を分ける。日本海側有数の砂丘である。
砂丘と、その彼方に広がる日本海は数多くの文学作品で描かれた。金沢の旧制四高(現在の金沢大学)で学んだ井上靖氏(1907-1991)、夫人の実家がある金沢でひとりコツコツと青春の挽歌をつづった五木寛之氏(1932-)など、内灘の浜と海はなにかしらロマンの香りが漂い、創作意欲をかきたてられるのかもしれない。
内灘町の東のはずれ、河北潟放出路の北側の丘陵地に昭和50年3月、「井上靖文学碑」が建った。海と砂丘を見下ろす絶景の地に、井上氏の筆でこう刻んである。
「日本海美し 内灘の砂丘美し 波の音を聞きて 生きる人の心美し」
北都金沢のそのまた北に広がる内灘の海はまさしくこの通りの美しさである。(P178-180、後略)出典①。
余談ですが、文中の五木寛之がこの内灘をテーマにして著したのは「内灘夫人」という作品。
朝鮮戦争をきっかけに、米軍が試射場を砂丘に設置しようとしたことに対する学生を中心にした反対運動、いわゆる「内灘闘争」が下敷きになっているもの。出典②。
その時代からの、学生運動に参加することへのさまざまな思いと、その後日譚が語られている作品です。わたしなどは思わず一気読みしました(米軍は結局、昭和32年に撤退)。出典③。
この内灘の砂丘は、有名な鳥取砂丘に次いで国内では3番目の広さを誇るものだとのこと。
見るに荒涼とした佇まいは、時に荒々しい表情を見せる日本海があってこそのものかも知れません。大都市の近郊に、このような名勝があるとはうらやましくなります。
次回に続きます。
今日はこんなところです。
(出典①「じゃらんnet」ホームページ)
(出典②「図説日本史通覧」黒田日出男監修・帝国書院編 2014年2月)
(出典③「フリー百科事典Wikipedia#内灘闘争」)