1970(昭和45)年開催の「大阪万博」で活躍した、万博を巡る千里の鉄道を中心にした交通機関についての企画展「振り返ろう懐かしの千里万博の時代」訪問記をお送りしています。
ニュータウンに最初の住民が入居を開始したのは1961(昭和36)年のこと。前回に引き続いてこちらにあった年表から、その半世紀にわたる歴史を少しく辿ってまいりたいと思います。
今日は「成熟」と記された、1970-80年代。
ニュータウンの玄関口「千里中央」付近(大阪府豊中市)。
「北大阪急行電鉄(北急)千里中央駅」と一体化した大型商業施設の拡充が続き、ニュータウンの一層の発展につながったのが、この頃。
そして、時代は「模索」と称した90年代に入ります。
平成に入ってからの「千里ニュータウン」の一大エポックというと、やはり「大阪モノレール開業」がそのひとつにあるでしょうか。
万博を機に整備された「府道大阪中央環状線(中環)」に沿い「千里中央〜南茨木(同茨木市)間」がその最初の区間として開業したのは1990(平成2)年6月のこと。「日本万国博覧会」が閉幕し跡地が「万博記念公園」となり、はじめてアクセスする鉄道でした。
以降、大阪空港や門真市方面へと、路線を延伸して行きます。
ところでわたしのブログでは、このような記事を定期的にアップしております。
くだんの「大阪モノレール」が「門真市駅」から南進し、ついにおらが街・東大阪へとやって来る、というもの。開業予定は2029年度です。
浮かんでは消え、消えては浮かんだ東大阪へのモノレール延伸。
小さい頃から事あるごとに東大阪までモノレールが延びて来るんやで、いつか(知らんけど、と続いた)と親から聞かされていたわたしにとっては、この千里での開業はうらやましくてたまらぬものでした。いつ地元に来るんやろうかと…「大阪モノレール」ホームページより。
それがようやく日の目を見ることになり、小さい頃から事あるごとにモノレールの話しを聞かされて来た身としては、楽しみで楽しみで仕方がありません(涙)万博記念公園にて。
「模索」とこの年代に記されていた理由というのは、パネル展示を順繰りに拝見して行くと窺い知れました。最初の宅地造成から30年が経過し、リニューアルやリノベーションされるものがある一方、施設や住居の老朽化や、住民の高齢化が少しずつ進んで行きます。
そして、「再生」の2000年代。
老朽化した団地群が次々と姿を消し、あらたな住戸の建設がはじまったのもこの時期から。
そして、2005(平成17)年、2015(平成27)年の数字。減少していた居住人口は上向いて来ているといいますが、世帯人数は2人強、高齢化率は26.1%→30.6%に。
千里中央から北へ、北急の「箕面萱野駅(同箕面市)」延伸(2024年3月予定)も間近に迫り、千里中央のタワーマンションの広告をよく目にするのですが、ニュータウン全体で俯瞰するとさまざまな課題がまだまだあるようです。
ところで、頃合い良くというのでしょうか、今週に入ってから新聞で「千里ニュータウン」についての特集記事が連載掲載されていました。
朝日大阪朝刊 2023(令和5)年12月14日付け 21面(大阪東部・河内地域面)より。
いま訪れている南千里からは阪急千里線で2駅先、終着駅の北千里駅(大阪府吹田市)周辺にまつわるもの。駅前の再開発でツインタワーマンションが計画されていることについて。
記事によると、ニュータウン全体の人口は、先ほど触れた2015年からはさらに回復し、10万人を再突破したとのこと。
分譲マンションの増加がその要因のようです。
しかし、古くから居を構える方々にとっては、これまでの街並みが変わってしまうことに複雑な気持ちがあるよう。難しいなと感じます。
さらに、同15日付け 21面。
街開き直後にニュータウンに引っ越された方のお孫さんのエピソード。
子どもの頃は近未来都市に見えたというお祖母様の言葉が印象に残りますが、地域でのつながり、生まれ育った土地を大切に思う気持ちは、どこでも大切なもの。
千里にはまったく地縁もない者ですが、その歴史には実にさまざまなことがあり、そしていま居を構える方々の、これから先を見据える思いがさまざまなあるのだな、と感慨に耽ってしまいます。
次回に続きます。
今日はこんなところです。