企画展「振り返ろう懐かしの千里万博の時代」千里ニュータウンを訪れる〜その14 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

1970(昭和45)年開催の「大阪万博」で活躍した、万博を巡る千里の鉄道を中心にした交通機関についての企画展「振り返ろう懐かしの千里万博の時代」訪問記をお送りしています。



会場の「千里ニュータウン情報館」を訪れています。



ニュータウンに最初の住民が入居を開始したのは1961(昭和36)年のこと。前回に引き続いてこちらにあった年表から、その半世紀にわたる歴史を少しく辿ってまいりたいと思います。




ニュータウンで最初に開発されたのは、いま居る南千里駅に近い佐竹台(さたけだい)という南端の地区だったそうですが、そこからあっと言う間に、各方面へ開発は進捗。


4年あまり後の1970(昭和45)年には、大規模な団体群や一戸建て宅地も、広範囲にわたり造成がなされたといいます。

計画的に建設された住宅、その間を貫く幅の広い道路。横断歩道は基本的になく歩道橋で移動出来るという、安全面でも高い評価を得られるものだったそうです。


そして千里丘陵の名を世界に広めたのが、1970(昭和45)年に開催された「日本万国博覧会(大阪万博、EXPO’70)」でした。

アジアで初めて開催された万国博覧会で、半年の会期中に約6,400万人を超える入場者を記録したという歴史に残る大イベント、ということは言うまでもありません。


会場はニュータウンからは離れていたものの、周辺では名神・中国道・近畿道といった高速道路・自動車道や、大阪市内の外郭部を走る「府道大阪中央環状線(中環)」が建設されます。

現在の大阪の交通網の基礎が、万博を機に整備されたのでした。グーグル地図より。



日本、世界から注目を集めた万博会場は、ニュータウンから数キロ北東のところに作られました。いや、壮観です。

わたしは70年代も終わりかけの生まれですが、一度だけでも行ってみたかった(T_T)



万国博会場に押し寄せる観客の大半を輸送したのは「北大阪急行電鉄(地下鉄御堂筋線と相互乗り入れ)」と「阪急千里線(地下鉄堺筋線と相互乗り入れ)」でした。

いずれも今日に至る、ニュータウンの重要な交通手段です。今回の企画展はそのあたりも詳しく取り上げられていましたので、また詳しく。


当時の写真には、なかなか驚くものもたくさんありました。万博でお披露目されるためにはるばるやって来た象。歩いて移動なんですね💦



さらに、このようなものも。

万博で働く海外からのホステス(現在でいうところのアテンダント)や関係者が居住していたのは、会場からほど近いこのニュータウンだったそうです。これにも驚きます。




華やかな万博を裏から支えていたのは、このニュータウンだったのですね。こういったエピソードは大変興味深いものです。

万博から5年後、ニュータウンは史上最高の人口数、実に129,860人を記録するに至ります。

世帯人数や高齢化率などを見るに、若い核家族がたくさん居を構えていたのでしょう。活気のある、若々しい街だったに違いありません。

次回に続きます。
今日はこんなところです。