春の箱根と小田原へ!念願の家族旅行記2023〜その61 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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みなさんこんにちは。前回からの続きです。久々の家族旅行で、3月なかばに「箱根・小田原」を訪れた道中記をお送りしています。


旅は第3日目(2023年3月12日)いよいよ最終日。小田原周辺の観光地巡りに当てました。




いよいよ、旅も佳境に入っています。

小田原で最後に訪れたのは「報徳二宮神社」。祭神として祀られる二宮尊徳(幼名・金次郎、1787-1856)は、小田原出身の思想家、農政家です。


前回の記事でも触れましたが、尊徳は「報徳仕法」というものを解いていました。


日々の倹約と、あらゆるものごとに対し「先見して行動すること」の重要さを解き、農民とともに地に根を張って農政の発展に尽力した(不勉強なブログ主の解釈です。悪しからず)という、江戸後期の「化成文化」を代表するひとりとして知られています。



ところで、わたしにとっては「尊徳翁」よりは「金次郎」と言う、幼名の方が馴染みがあります。全国の小学校には必ずと言って良いほどある、農業に携わりながら書を読み、勉学に励むこの像のイメージがあまりにも強いためです。


自分(やJK長女、来年からはちびっ子次女も)が通っていたおらが街の小学校にも、もちろん居られました。それも、正門の真正面に!



その金次郎が生まれ育ったというのが、小田原郊外の「栢山(かやま)」というところ。


小田原の駅からは小田急線で4つ目、相模湾に注ぐ「酒匂川(さかわがわ)」に面する街です。グーグル地図より。



現在でも語り継がれる「報徳仕法」を生み出した金次郎の生い立ちとは、果たしてどのようなものだったのでしょうか。

この旅では幾度も登場、全国47都道府県をテーマにしたシリーズもの「各駅停車全国歴史散歩15 神奈川県」(神奈川新聞社編 昭和55年2月初版発行 河出書房新社刊)から、拾ってみることにします。


二宮尊徳の生地

栢山


栢山駅を降りて県道を南へ10分ほどの小さな用水路のほとりに二宮尊徳の生家がある。(中略)


金次郎を鍛えた伯父・万兵衛

金次郎を名乗っていた少年時代から彼の主柱となっていた「積小為大(小を積んで大をなす)」を今に伝えるのが「捨苗植栽の地」「油菜栽培の仙了(せんりょう)堤」。



田植えどきになると、あぜ道などに発育の悪い苗や植え残りの苗が捨ててある。無用の物として枯れる運命にあるこの苗を、金次郎は用水堀近くの空き地に植えた。伝説によると、これが秋になると一俵余りに、そして翌年は五俵、翌々年には二十俵。出典①。


「享和三年(1803年)先生十七歳の時、捨苗を拾い…(中略)小を積みて大を致するの理を覚られし用水路の空地跡なり 昭和二年初冬」の石碑は生家から100メートル足らず、民家の裏手に建っている。



ここからあぜ道を歩いて、新設校の小田原市立報徳小学校へと進むと、仙了川という小さな川のほとりにて「夜学の灯油に代えんため、余暇をもって油菜を作られし当時の仙了堤なり」の石碑。


酒匂川のはんらんがもとで親と土地を失った金次郎を引き取ったのが伯父・万兵衛。夜遅くまで本を読む金次郎は「油がもったいない」としかられ、伯父に迷惑をかけない方法をと、友人から菜種五勺(約0.9リットル)を借り近くの荒地にまいた。翌年には7升(約12リットル)に…



この万兵衛は俗に「意地悪じいさん」呼ばわりされがちだが、尊徳を研究していた人や地元の人は、金次郎を立派な百姓(注釈:原文ママ)にして一家の復興を図らせようと厳しく鍛えた、と好意的にみている。(後略、P188-189)同。

なるほど、つましい生活の中で発見したことを自分なりに咀嚼し、そして行動に移したことで小さなことでも積み重ねることは結果になる。

数年前にもてはやされた「もったいない精神」に通じるものがあるようにわたしは感じたのですが、それを一貫したということ、そして、それを自身が進んで行動することで、農民に示したということに、意義があったのでしょうね。


金次郎が生まれ育った栢山というところには、駅のある小田急の他にも「大雄山線(伊豆箱根鉄道)」や「JR御殿場線」などが酒匂川とともに、南北方向に並走しています。

現在では開発が進むところだと言いますが、大きな河川が存在しているところには、治水と干拓というものはこの時代、つきものだった筈。その中で、現代にも通じる重要な思想を生み出した尊徳翁の大元というものには、まさに農業が基礎になっていたことがよくわかります。


ただ思想を語るだけではなく、その土地に住む農民と一蓮托生になり、農業の発展のため苦楽をともにしたことが、死没から150年以上経過した現在でも、このように尊崇されている所以なのだろうと、ふと感じた次第なのでした。


ですので、貧しい家計で家業を手伝いながら勉学に励んでいるという意味だけではない像、という、深〜い意味が潜んでいたのですね。小さい頃なんとも考えなかったですが、なるほど…

さしものJK長女も、これには驚いていました。
毎日、横を通っとったんやけど!などと(汗)神社で頂いたリーフレットより。


お参りを済ませたところで、御朱印を頂くことします。本殿とは別の建物でした。


小田原城内鎮座、という但し書きが実に重みがあります。尊徳翁の時代ではお城の、それもそのすぐ隣にだとは、如何にその存在が大きかったのだろうと推し量られます(創建は死没後の明治期だそうですが)。志納500円以上。



身近な存在でありながら、これまで知らなかったことを知れるということの有難さを、今回は殊に感じました。繰り返しですが、小さい頃に毎日、校門で見かけていた御仁のことですし…

私事ですが、来春からはちびっ子次女もピカピカの一年生になりますので、余計に感慨に耽ってしまいます。また、仔細を教えてあげよう。
大変、勉強になったお参りでした。


ここで、3日間にわたる「箱根・小田原の旅」も、その名所旧跡巡りはおしまい。実に名残惜しいのですが、ヨメハンとくだんのちびっ子次女と合流して、小田原の駅へと戻ります。


次回に続きます。

今日はこんなところです。


(出典①「フリー百科事典Wikipedia#田」)