みなさんこんにちは。前回からの続きです。
今年5月で開業から100周年を迎えた「近鉄生駒線・旧東信貴鋼索線」。
大阪・奈良府県境を成し、古くから霊峰として崇められていた「信貴山(しぎさん)」へ向かった鉄道網にまつわる歴史に触れるべく、現地を巡った訪問記をお送りしています。

信貴山を巡るというこのシリーズもいよいよ大詰めに入りました。本題の「旧東信貴鋼索線」と対を成していた「西信貴鋼索線」、そのふもと側「信貴山口駅(大阪府八尾市)」です。

さて、ケーブルカー乗り場を後にしまして、広々とした駅構内をあちこち探索しています。

改札前で見つけたのが「西信貴鋼索線」にまつわるこの展示です。
信貴山へのメインルートとして、ちょうど100年前の1922(大正10)年5月に開業したのが、本題の「旧東信貴鋼索線」。
東側の奈良方から信貴山へと登るものでした。グーグル航空地図より。

それから遅れること8年後、1930(昭和5)年12月に開業したのが、この「西信貴鋼索線」。
名称の通り、西側の大阪方から信貴山へ登るもので、これらは長年にわたり「対」として親しまれて来ました。


ところで、気になるのがここまで乗車して来た
ケーブルカーの諸元です。その詳しい図説もありました。


よくよく観察していますと、ホームの外側に勾配標を発見。「169.5」とは「169.5‰(パーミル)」との表記。つまり、駅の構内に当たるここでさえ「水平へ100m進むごとに169.5m登る勾配」だとわかります。

しかし、そう言われてもいまいちぱっとイメージしにくいような。前回でも触れましたが、この駅を出るとひたすらまっすぐに、延々と坂道が続いているのですが。
ところが、先ほど下山のために乗り込んだ、山上の「高安山駅(同)」を出てからすぐは、なんと「480‰→400‰」という勾配だったことも、この図からわかります。
「高安山駅」に戻りまして…確かに、これはまともに立って居れないような急坂だったことを思い出しました。
反対に「高安山駅」到着直前の車内から。これはやはりというか「登山」ですね。

確かに、山上から見えるこの大阪平野の景色に対して、右側の架線の張り方を考えますと、とんでもない高さのところから、えらい角度で下りて来たのだなと感じます。目から鱗です。

さて、図説の下には、ケーブルカーで実際に使用されているという車輪がふたつ。ただ、わたしたちが普段、利用している一般的な鉄道車両のそれとは、だいぶ様相が異なります。


一方は「溝車輪(みぞしゃりん)」。
これは、その一般的な鉄道のそれとあまり変わりないようですが、レールに跨っている車輪のフランジが、左右とも同じ高さです。
こちらが、一般的な鉄道の車輪。出典①。
レールの内側に当たる方のフランジが出っ張っているという違いがわかります。
主に、カーブを通過する時の脱輪を防ぐためのものですが、ケーブルカーのそれというのは、車輪に溝はついているものの、ただレールをはさんでいるだけ。
もう一方は「平車輪(ひらしゃりん)」。
これはさながらローラーのようですが、レール上に広い面積で抑え込むような、ちょっと特殊な形状です。急勾配で逸走しないようにしているためでしょうか。

さらに、先ほどの「溝車輪」を用いて、ケーブルカーはその進行方向が決まるのだとのこと。
これは、まったく知りませんでした。

「ケーブルカー」と言われると、名前の通り、線路中央のケーブルでもって引き上げ、降ろしているだけだと思っていたのですが。ものすごい勾配を行き来するゆえ、事故に至らないように、さまざまな工夫がなされているとは、これは勉強になります。
次回に続きます。
今日はこんなところです。
(出典①「フリー百科事典Wikipedia#輪軸(鉄道車両)」より)