みなさんこんにちは。前回からの続きです。
今年5月で開業から100周年を迎えた「近鉄生駒線・旧東信貴鋼索線」。
大阪・奈良府県境を成し、古くから霊峰として崇められていた「信貴山(しぎさん)」へ向かった鉄道網にまつわる歴史に触れるべく、現地を巡った訪問記をお送りしています。
「信貴山朝護孫子寺(しぎさんちょうごそんしじ、奈良県生駒郡平群町)」からの帰路。
現在、公共交通機関では信貴山へのメインルートとなっている、大阪都心に向いた「西ルート」で帰阪しようかという途です。

「信貴山門停留所(同三郷町)」から近鉄バスに乗り10分ほど。いよいよ、府県境を越え「高安山駅(大阪府八尾市)」に到着しました。八尾はおらが街の隣町、もう身近なところです。

さて、乗車して来たバスはロータリーをぐるりと転回して「信貴山門停留所」へと折り返して行きます。
その奥側、ここでバスと接続している「西信貴ケーブル」駅すぐ脇のところに、なんとも気になる遺構と、案内を発見。


それがこちら。「電車が走ってました!」というもの、さらに、これは駅名標。右書きです。


実はここには「信貴山急行電鉄 山上鉄道線」という鉄道が乗り入れていました。
これはその「高安山駅」ホーム跡だとのこと。

1930(昭和5)年12月、これから山下りに乗車する「西信貴鋼索線 信貴山口駅〜高安山駅(1.3km)」と同時に、前身の「信貴山急行電鉄」という会社により、一般鉄道として「高安山駅〜信貴山門駅間(2.1km)」が開業。
さらにこの「信貴山急行電鉄」という鉄道路線に、大変注目されるエピソードがありました。
毎度おなじみ「フリー百科事典Wikipedia#信貴山急行電鉄」より。
元々、信貴生駒電気鉄道が王寺駅 - 山下駅(現、信貴山下駅)間の鉄道線(現、近鉄生駒線)と山下駅 - 信貴山駅間の鋼索線(後に近鉄東信貴鋼索線となり、1983年に廃止)を1922年(大正11年)に開業させた(東ルート)のに対抗して、大阪から大軌(だいき、大阪電気軌道。現在の近鉄の母体会社に当たる)の路線を経由してより短距離で信貴山へ行ける路線(西ルート)の建設を目論んで設立されたのが同社である。近鉄ホームページより。
ということで、麓の「信貴山口駅(同)」から山を登ったところの「高安山駅(同)」で「信貴山門駅」ゆきの鉄道に接続していたことがわかります。淡々と記すと、こうなるのですが…
同社が運営していた鉄道線は、ケーブルカーで登った山の上を走るという、スイスなどでは例があるものの日本では唯一のもので、「山上鉄道線」「信急平坦線」「平坦線」とも呼ばれていた。
そういったことで、ケーブルカーで山頂へ登ったところから、さらにケーブルカーやバスではなく、本来であれば平坦な地を走るはずの「一般鉄道」が接続していたという、国内では唯一の特異な例でした。
これも「高安山駅」からは距離のあった「信貴山朝護孫子寺」へアクセスするために建設されたものでした。グーグル航空地図より。
しかし…解説にある「スイスの山上鉄道」というと、この「ユングフラウ鉄道」などが有名ですが、それに比するものが府内の、さらにわたしの住む中河内にあったとは…です。出典①。
ところで「信貴山門」というと、いましがた「近鉄バス」に乗ったところです。そういったことでくだんの「信貴山門駅」も、これに近い場所にあったそうですが…

先ほど、バスで通って来た「信貴生駒スカイライン」という有料道路は、その「信貴山急行電鉄」の廃線跡を転用したものだとのこと。
その証左に、ここからは「近鉄バスしか入出場出来ない」旨の看板がありました。
緑濃い山中に、かつてはここに電車が走っていたとは…です。それも、ここは標高のある山頂付近。不思議な気分になります。
ところで、道路もなかった当時、人間がケーブルカーや自力でしか登ることの出来なかった山頂に、どのようにして鉄道車両を運び込んだのか、ですが…

なんと、麓から山を登り降りしているケーブルカーの線路に車両を載せ替え、山上から引っ張り上げていたのだとのこと。これはすごい…

麓の「信貴山下駅」で互いに線路が近接していたとはいえ、なんという荒業…よしんば途中でロープが切れたりしたら、急坂でえらいことになりかねません。時代やなあと感じます。
ただ、苦労して車両を引っ張り上げ開業させた「山上鉄道」もアジア太平洋戦争の戦局悪化に伴って「不要不急線」に指定、1944(昭和19)年1月に、ケーブル線ともども営業が休止されてしまいました。わずか14年弱の脈命でした。
戦後「西信貴鋼索線」は復活したものの「山上鉄道」は残念ながらそうならず、1957(昭和32)年3月に正式廃止され、現在のバス輸送に切り替えられました。
ちなみに「山上鉄道」の車両は後に「伊賀線(現在の伊賀鉄道)」へ転属。改番の上、1977(昭和52)年まで活躍したそうです。出典②。
都合、戦後に今度は「山を降りる」ことになるのですが、やはり、それにもケーブルカーの線路を使用して降ろしたのだそうです。
登山も下山もその方法というのは、荒業でした(笑)先取りして「西信貴鋼索線」車窓より。
路線休止からは80年弱、正式廃止からでも60年あまり、その長い間、苔や草に覆われたコンクリートですが、やはり「プラットフォーム」を思わせる存在感があります。

山頂まで苦労して車両を運び、参拝客を輸送しようとしたあたり、「信貴山」というのはやはり、ここまでのことをやった当時の競合関係というものや、多くの乗客が押し寄せる需要があったことを、あらためて感じた次第です。
次回に続きます。
今日はこんなところです。
(出典①「まっぷるトラベルガイド 絶景を楽しめるスイス登山鉄道」ホームページより)
(出典②「カラーブックス日本の私鉄1 近鉄」廣田尚敬・鹿島雅美共著 保育社刊 昭和55年2月発行)