みなさんこんにちは。前回からの続きです。
昨秋、急遽頂いた連休に思い立ち、お四国の香川・高松へ「ことでん(高松琴平電気鉄道)」の沿線を巡った、久しぶりの遠出ひとり旅の様子をお送りしています。

高松郊外の名勝・屋島を訪れています。
山頂にさまざまな名所が点在している中、古くから信仰を集めているのが「真言宗 屋島寺」。

そしてこちらは、四国八十八ヶ所霊場の第84番目の札所としても知られています。
数字からわかるように、第1番「霊山寺(りょうぜんじ、徳島県鳴門市)」から順に廻って行きますと、第88番「大窪寺(おおくぼじ、香川県さぬき市)」まではあと少しばかりのところ。観光の前に、まずこちらのお寺にお参りしたいと思います。

ところで「四国八十八ヶ所霊場」のお寺には、必ず「大師堂」が存在しています。
四国遍路の始祖、弘法大師・空海(774-835)をお祀りしているもので、本堂はまた別にあるというのが特徴です。
巡礼の際には、大師堂・本堂ともに同様に納経、納め札をするのが習わしだといいます。
それでは、このお寺の由来を探ってみます。
屋島寺の歴史・由来
屋島は高松市の東、標高293メートルの火山台地の半島で、那須与一の扇の的や義経の弓流しなどで有名な源平合戦の古戦場の史蹟で知られる。屋島寺はその南嶺にある。
屋島寺は、天平勝宝のころ鑑真和上(688-763)によって開創されたと伝えられる。
鑑真和上は唐の学僧で、朝廷からの要請をうけ5度にわたって出航したが、暴風や難破で失明、天平勝宝5年(753)に苦難のすえ鹿児島に漂着した。
翌年、東大寺に船で向かう途次、屋島の沖で山頂から立ちのぼる瑞光を感得され、屋島の北嶺に登った。そこに普賢堂を建てて、持参していた普賢菩薩像を安置し、経典を納めて創建されたという。
のち和上の弟子で東大寺戒壇院の恵雲律師が堂塔を建立して精舎を構え、「屋島寺」と称し初代住職になった。
弘仁6年(815)、弘法大師は嵯峨天皇(在位809〜23)の勅願を受けて屋島寺を訪ね、北嶺にあった伽藍を現在地の南嶺に移し、また十一面千手観音像を彫造し、本尊として安置した。
以後、大師は屋島寺の中興開山の祖として仰がれている。いずれも出典①。
屋島寺はまた、山岳仏教の霊場としても隆盛し、天暦年間(947〜57)には明達律師が訪ねて四天王像を奉納された。

現在の本尊・十一面千手観音坐像はこのころに造られており、国指定重要文化財になっている。やはり国指定重要文化財の本堂は鎌倉時代に造営されているが、寺運は戦乱によって衰退する。



だが、国主・生駒氏の寺領寄進や、歴代藩主の援助により相次いで修築され、鎌倉・江戸時代の風格を現代に伝えている。出典②。

さて、本堂の前には、このような巨大な鉢が。
手を洗い清めるための手水鉢(ちょうずばち)でしょうか。

銘を観察しますと、帝国陸軍の第43連隊が寄進したものだとわかります。
調べてみますと、1896(明治29)年に丸亀(香川県丸亀市)で、歩兵連隊として発足。
1904(明治37)年に、日露戦争に従軍。
「征露記念」とあるので、こちらは、日露戦争で勝利した記念に奉納されたものでした。
このように、地域に所属していた軍隊が、武運長久や無事を祈願して、記念の品を寺社仏閣に奉納する例は、割り合いによく見かけます。
連隊は後に、県下の善通寺(同善通寺市)に移転。日中戦争が勃発すると、上海付近に展開した後に満洲と、グアムに別れて従軍。
終戦は、本土決戦に向けた防衛のため陣地を構築していた、高知で迎えたとのこと。
大変、貴重なものを拝見出来ました。
深い、歴史を感じます。
さて、お参りを済ませた後に、御朱印を頂きました(志納300円)。
「八十八ヶ所霊場のものは日付けが入りません」ということで、珍しいなと感じます。
生涯でいつか、一度は八十八ヶ所巡礼をしてみたいと実は密かに憧れている、わたしです。
生半可な心持ちでは到底出来ないでしょうが…
ともかく、お参りが出来てなによりです。
いま少し、境内を散策してみることにします。
(出典①「図説 日本史通覧」黒田日出男監修、帝国書院編集・発行 2015年2月)
(出典②「四国八十八ヶ所霊場会」ホームページ)
次回に続きます。
今日はこんなところです。