阪和電気鉄道 昭和初期の面影〜その46「泉州を貫く軌跡 阪和電鉄全通90周年」展 Vol.3 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

 

府南部、和泉市(いずみし)の「弥生文化博物館」で開催されていた「泉州を貫く軌跡 阪和電鉄全通90周年」という、特別展を訪問した様子をお送りしています。

 


現在は「JR阪和線」となっている「阪和電気鉄道」。昭和初期の当時、日本一の高規格で建設され、超高速運転がなされたエリート私鉄でしたが、時代に翻弄され、短命に終わった歴史についても、さまざま知りたいと思う次第です。
 
 
ただいま「JR阪和線 天王寺駅(大阪市天王寺区)」。その「JR阪和線」の前身に当たる、本題の「阪和電気鉄道」がかつて大阪方のターミナルとした駅ですが、令和の現在に至っても、昭和初期に開業させた際の雰囲気をふんだんに残す、市内では貴重な、現役の戦前遺産です。

ここから、特別展が開催されている「弥生文化博物館(大阪府和泉市)」の最寄り駅「信太山駅(しのだやまえき、同)」へ向かいます。

 
それでは、頃合いよくやって来た快速列車に乗り込みまして、しばらく前面展望をご覧頂きたいと思います。 
  
 
手元の「阪和電鉄沿線御案内(昭和10年ないし11年発行)」より。いまも昔も変わらない、大阪の南の玄関口「天王寺」を発車します。 
 
 
「阪和線」はこのあたり、高架線構造が採用されています。これは1929(昭和4)年の開業以来からのもので、昭和初期の近代的な建築物としても貴重なものと言われています。

 
その当時にはまだ珍しかった、高架線を採用した(正確には「そのようにせざるを得なかった」そうですが)理由というのは…


グーグル地図より(以下、北が下)。
天王寺を出て、すぐに南へカーブ。地上を走る「大阪環状線」と「大和路線(関西本線)」をオーバークロス(以下の地図中)。

 
右へ分岐するのは、地上に設けられている「天王寺駅 大阪環状線ホーム」へつながっている短絡線です。

環状線へ直通運転している「関空・紀州路快速」や、新大阪・京都方面からやって来る関西空港アクセス「特急はるか号」、南紀方面への「特急くろしお号」は、冒頭の「阪和線天王寺駅」には入線せずに、地上駅の方を経由する形になっています。

 
さらに「近鉄南大阪線(当時は“大阪鉄道本線”)」の高架が「阪和線」をまたぐ()。

この、近鉄の高架化は昭和50年代に入ってからでしたので、都合、それまでは逆に「阪和線が近鉄をオーバークロスする」という路線形態になっていました。


さらに進んだところでは「阪神高速道路号松原線」をくぐる。
1980(昭和55)11年までは、これをトレースする形で「阪堺電気軌道平野線」が地上を走っていて、ここで「阪和線」と交差していました(。現在は廃止され「OsakaMetro谷町線」が代替路線として建設、地下を走る)。

というような具合で、他の鉄道路線がすでに開業していた手前、昭和初期に開業した後発の「阪和電気鉄道」は、それらとの交差を避けられませんでした。


先取りして、博物館の展示パネルより。
天王寺を出発、高架線を和歌山へ向かう列車。
1938(昭和13)年撮影。

その結果として、地上線ではなく高架線での天王寺駅乗り入れを採用せざるを得なかった、という事情があったためです(国からの路線建設の許認可も、この区間の高架化を条件として挙げられていたそうです)
しかし、すごい大きさのパンタグラフです。

次回に続きます。
今日はこんなところです。