阪和電気鉄道 昭和初期の面影〜その47「泉州を貫く軌跡 阪和電鉄全通90周年」展 Vol.4 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

 

府南部、和泉市(いずみし)の「弥生文化博物館」で開催されていた「泉州を貫く軌跡 阪和電鉄全通90周年」という、特別展を訪問した際の様子をお送りしています。

 

前回の記事でも触れましたが、現在の「JR阪和線」となっている「阪和電気鉄道」。

昭和初期の当時では、日本一の高規格で建設され、超高速運転がなされたエリート私鉄でしたが、時代に翻弄され、短命に終わった歴史についても、さまざま知りたいと思う次第です。



「天王寺駅(大阪市天王寺区)」から、本題の「阪和電気鉄道」もとい「JR阪和線」に乗り込み、特別展が開催されている「弥生文化博物館(大阪府和泉市)」に向かっています。

ところで、この路線のみならず「JRの架線柱」と言いますと…


こんなのや…


最近であれば、構造もシンプルな、このようなものを思い浮かべます。




もっといえば、JRだけでなく、全国の大手私鉄などででも、これらは近年になり、均一化されているようにも感じます。


ですが、この「JR阪和線」の一部区間で使用されているそれというのは、実に特徴のあるものです。
それが、天王寺の駅を出てからの、昭和初期に開業させた古い高架線の区間において、ずらりと林立しています。


複線線路の上に広がる桟の部分に「▽△」のきれいな組み合わせ。


そして、それを支える両端の支柱。
これをよくよく観察しますと、空に延びる先端部と、接地面の形状がともに、先がすぼまっているのがわかります。

昭和初期の開業時に建設された、阪和電気鉄道オリジナルのものですが、他のそれでは見られない、優美とも言える特徴あるデザインです。そういったことから、わたしはこれを勝手に「阪和型架線柱」と呼んでいます(苦笑)


先取りして、先日にも取り上げました博物館での展示パネルから。

「昭和13(1938)年」とありますので、前身の「阪和電気鉄道」が和歌山まで全通して8年後のこと。
この高架線区間を疾走する、オリジナルの大型電車が大写しになっているのですが、しっかりとくだんの架線柱の様子がわかります。


「阪和電気鉄道」は昭和初期に華々しく開業したものの、戦争に突き進む時代背景と、国策に大きく翻弄され、わずか10年あまりで姿を消した、ということは、先日からの記事でも触れました。

しかし、このように昭和初期の近代的なモダニズムをふんだんに採り入れるなど、当時としては先駆的な、斬新な試みを積極的に行っていたことでも知られているようです。




こうした試みは、会社創設に当たって中心的な役割を果たした、現在では沿線の「泉州」や「和歌山」とはなんら関連のない、この鉄道会社の影響が多大に及んでいたから…と言われています。これについては、また後日項で。

以上、「中書島・天満橋・三条」にて。


阪和は沿線の開発はもちろんのこと、当時、国の交通輸送の根幹を担っていた「鉄道省(→国鉄→JR)」路線の規格をはるかに凌駕する高性能な車両、また、特徴のある駅や施設などを有していました。その遺産のひとつが「阪和型架線柱」と言えます。



その痕跡が、JRとなった令和の現在でも、このように沿線には生き残っているということは、実に趣味的に興味をそそります。


先ほど、天王寺を出てほどなく通過した「大和路線(関西本線)」などを跨いでいた橋梁にもありました。両端の支持柱が太いタイプのものは、沿線では殆ど見られなくなったもの。

ただし、特にJRになって以降、これらの遺産は急激に姿を消してしまいました。
これらについては、博物館に到着してからあれこれと掘り下げてみたいと思います。


そうこうしている間に、列車は「大和川(やまとがわ)」橋梁に差し掛かっていました。
くだんの「阪和型架線柱」が多数遺されている貴重な区間です。


これを渡りますと「堺市」に入ります。
ちょうど、ハローキティラッピングの「特急はるか」とすれ違うところでした。

次回に続きます。
今日はこんなところです。