みなさんこんにちは。前回からの続きです。
6月のラストランが迫った、日本初で日本最後となった多扉車(たとびらしゃ)「京阪電車5000系」と、全国的に見ても、朝ラッシュ時の混雑が殊に激しかった京阪沿線において、昭和30〜50年代に旅客輸送対策のために行われた事業を、時系列に取り上げるということをしています。
今項では、1972(昭和47)年に起工され、完成までに10年あまりを要した「土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事」と、その時期に投入が開始された、本題の「5000系」との関わりについて掘り下げています。
くだんの「5000系」に乗車、到着したのは「萱島駅(かやしまえき、大阪府寝屋川市)」。
この駅止まりで、駅の東側にある「寝屋川車両基地」へと回送されて行きました。
「守口市駅(同守口市)」から乗り鉄して来た高架複々線区間は、現在この駅が東端になっています。通勤準急以下が停車することから、各駅停車などとの接続が出来るように、ホーム2面・4線の構造が採られている、拠点駅です。
ホーム京都方から。ちょうど、京都ゆきの「快速特急 洛楽」が通過して行くところでした。
ところで、先ほど高架複々線はここまで…と述べたのですが、線路自体はこの先も複々線になっています。
冒頭の、この駅止まりの列車が回送されて行く
「寝屋川車両基地」(地図中右上)と、折返しのため敷地内に設置されている「寝屋川信号所」へ直結している専用の複線があるために、高架複々線区間は「天満橋〜寝屋川信号所間」と定義されています。
先日の記事でも触れたのですが、平日朝ラッシュ時に、一本でも多くの列車を送り出す必要に迫られていた昭和40〜50年代、そのためには、車庫に直結するこの駅までの高架複々線化がどうしても必要でした。出典①。
激しい混雑を改善するために計画された、この高架複々線は、完成した区間から使用を開始し始めてはいたのですが、工事期間中には途中で複線をはさむ形になるために、本格的な列車の大増発はこの駅と、寝屋川信号所までの全通を待たねばなりませんでした。出典②。
工事はさまざまな事情で長引き、1980(昭和55)年3月にようやく完成、これによって白紙ダイヤ改正が実施され、大規模な増発とスピードアップが可能になりました。出典②・③。
高架複々線化により、輸送状況は具体的にはどうなったのかとひもといてみますと、線路容量は31本分→48本分、列車本数は31→36本へと、大きく増大しています。出典④。
守口市までだった複々線を、この駅まで延ばせたおかげで、輸送力をさらに増強させたことがわかります(従来、守口市発着だった列車をすべて萱島発着に区間延長することが出来た)。出典⑤。
普通、単線区間では1日80回、複線区間では240回が限度とされている。
列車種別が単一であれば線路容量は大きく、特急旅客列車と低速度の貨物列車とが混在して使われる線区は線路容量が低下する。
「日本大百科全書(ニッポニカ)」より。


そういったことで、高架複々線が実質的にはじまるこの駅のコンコースには、記録的な意味をも持つ高架複々線の完成を祝した記念碑が設けられています。出典②。
グーグル地図より。
この区間の高架複々線化は、戦前、すでに開業していた大阪市内〜守口間の高架複々線と連接することで、全長12.6kmにも及ぶ民鉄最長の高架複々線が機能するに至った瞬間でした(現在は東武鉄道伊勢崎線 北千住〜北越谷間 18.9kmが最長タイトル)。
耐え難いほどに激しいラッシュを緩和させたこともさることながら、鉄路で分断された市街地を結節するという効果も多大で、完成から40年を迎えた現在においても、大きな役割を果たしている高架複々線です。出典②。
さて、前回の記事でも触れたのですが…
この駅の大阪方面ホーム、なんと屋根から巨木が突き抜けているではないですか。
この不思議な光景に至った理由には、実はこの高架複々線化工事と大きな関係があります。
(出典① 京阪電車広報誌「くらしの中の京阪」1980年2月号)
(出典②「記念誌 クスノキは残った 土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事の記録」京阪電気鉄道株式会社編・刊 1983年)
(出典③ 京阪電車広報誌「くらしの中の京阪」1980年4月号)
(出典④「鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション25 京阪電気鉄道 1960〜70」株式会社電気車研究会 鉄道図書刊行会発行 平成25年4月号臨時増刊)
(出典⑤「京阪七十年のあゆみ」京阪電気鉄道株式会社編・刊 1980年)
次回に続きます。
今日はこんなところです。