多扉車の元祖「京阪電車5000系」ラストランへ向かって〜その26 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。


6月のラストランが迫った、日本初で日本最後となった多扉車(たとびらしゃ)「京阪電車5000系」と、全国的に見ても、朝ラッシュ時の混雑が殊に激しかった京阪沿線において、昭和30〜50年代に旅客輸送対策のために行われた事業を、時系列に取り上げるということをしています。


今項では、1972(昭和47)年に起工され、完成までに10年あまりを要した「土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事」と、その時期に投入が開始された、本題の「5000系」との関わりについて掘り下げています。出典①。



昭和40〜50年代に順次切り替えられた、くだんの高架複々線区間をたどっているところです。

「古川橋駅(大阪府門真市)」に到着。


ここで「区間急行」を途中下車。
残念ながら?本題の「5000系」ではなく、それより古い「2200系」という車系でした。

製造初年は1964(昭和39)年と、京阪では最古参の部類に入る車両ですが、数を減らしつつも令和の現在でも、ばりばりの現役です。
京阪電車は、伝統的に車両を大事に使う会社ですが、さすがにすごいもんやなあと感じます。



カーブに身をくねらせながら、隣の「大和田駅(同)」へと向かって行きました。


高架複々線化工事中の「古川橋駅」、1975(昭和50)年頃。
前回の記事で、この区間の高架複々線化には、さまざまな事情が重なり合った結果、起工から完成までには、実に10年もの歳月を要する難工事だった…ということを述べました。



用地買収の困難もさることながら、あまりの混雑の激しさに工事が追い付かず、というところに「切り札」として投入された「5000系」車両により、なんとか急場を凌いだというのが実際のところだったようです。

現在では、想像もつかない事態です。



その「古川橋駅」を出発。特急車内からのショットですが、この高架複々線では、いちばんカーブが集中しているのがこの駅間でしょうか。


ほどなく、やはりカーブにかかる「大和田駅(同)」に差し掛かります。



複々線化工事開始直前、昭和46〜47年頃の「大和田駅」全景。
現在のそれと比較しても、線形は実に忠実に?トレースされているのがわかります。

本来であれば、少しは直線化しての高架化が望ましかったのでしょうが、それがなされなかったのは、十分な高架化用地が確保出来ずに、従来の地上線に沿って高架を建造せざるを得なかったから、という事情が窺えます。


ところで、この駅は地上線時代、上り京都方面に向かう列車では、車庫のある守口から数えて最初に待避線のある駅でした。

そういったことで、高架複々線化の完成まではこの駅は運行の拠点となっていて、各駅停車の待避や、ここ折返しの区間急行列車の設定もあったようです。いずれも出典②。




高架複々線化工事さなかの「古川橋駅」。

大阪方面への線路がまず高架化されたという経緯でしたが、待避線の機能はそれでも確保されていたことがわかるショットです。

京都方面への線路、ホームは地上のまま。


1977年(昭和52年)7月24日 - 下り線(大阪行き)の通過線と待避線が高架化、待避側のみホームが設けられる。



そして、その京都方面の線路が高架化された後も、地上線時代同様に高架には待避線が仮設され、運行上重要な役割を果たしていました。

1978年(昭和53年)7月30日 - 上り線(京都行き)の通過線と待避線が高架化、待避側のみホームが設けられる。これで中央に通過線を持つ4線相対式ホーム2面の高架駅となる。

1980年(昭和55年)2月3日 - 上り線(京都行き)が2線化される(京都行き2線・大阪行き1線)。
3月16日 - 門真市駅-萱島駅間が高架複々線化出典③。



複々線化後、待避線の役目は必要がなくなり、現在は面影はなくなってしまいました。
現在の姿しか知らないわたしとしては、なかなか興味深い変遷です。


ところで、駅の大阪方面ホームの南側には第一勧銀の大きなハートマークが目に留まります。
電車からも目立つ、大和田のランドマークでしたが、後年の合併で「みずほ銀行 大和田支店」になった後、2003(平成15)年に近隣の支店に統合される形で閉鎖されてしまいました。

こういったものからも時代を感じるものです。


続いては、隣の「萱島駅」へと進みます。




「天満橋駅(大阪市中央区)」から12kmあまりにわたって連続する、高架複々線の終端に当たる「萱島駅(かやしまえき、大阪府寝屋川市)」が見えて来ました。


実はこの駅、今項で取り上げている高架複々線化工事において、エポックメイキングな試みがなされた駅でもあります。

右手大阪方面ホームに見えているものですが…


(出典①「鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション25 京阪電気鉄道 1960〜70」株式会社電気車研究会 鉄道図書刊行会発行 平成25年4月号臨時増刊))

(出典②「VHSビデオ 3000系ダブルデッカー登場記念 甦る京阪電車の昭和時代」ABCアーカイブス 1996年制作)

(出典③「Wikipedia#大和田駅(大阪府)」)

(その他出典「記念誌 クスノキは残った 土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事の記録」京阪電気鉄道株式会社編・刊 1983年)


次回に続きます。

今日はこんなところです。