多扉車の元祖「京阪電車5000系」ラストランへ向かって〜その25 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。


6月のラストランが迫った、日本初で日本最後となった多扉車(たとびらしゃ)「京阪電車5000系」と、全国的に見ても、朝ラッシュ時の混雑が殊に激しかった京阪沿線において、昭和30〜50年代に旅客輸送対策のために行われた事業を、時系列に取り上げるということをしています。

今項では、1972(昭和47)年に起工され、完成までに10年あまりを要した「土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事」と、その時期に投入が開始された、本題の「5000系」との関わりについて掘り下げたいと思います。



ただいま「門真市駅(大阪府門真市)」です。

くだんの、昭和40〜50年代にかけて、順次高架複々線化された区間をたどっています。


先日の記事でも触れましたが、この区間の高架複々線化というのはかなり特殊なもので、なおかつ手間と時間がかかるものでした。





沿線はすでに開発が進んで住宅密集地になっていたため、高架化に際して本来確保すべき用地にも余裕が少ない上に、旅客輸送での混雑のみならず、多数存在していた踏切も、列車本数の増加にともない、遮断時間が拡大することで大混雑を呈する(本格的なモータリゼーションがはじまった時期)…という、悪い条件ばかりが揃っていました。



先行して開通した複線高架に、上下複線が移設された「西三荘駅」(同門真市。左側は京都方面仮ホーム、右側は大阪方面ホーム)。

現在、この2線は大阪方面への優等列車線(左側)、各駅停車線(右側)となっており、さらに左側には京都方面への2線が存在する。



そういったことで、高架予定区間の全通を待たずして、建設された部分から使用を開始するということになりました。それほどまでに、混雑具合の事態は深刻だったようです。出典①。



この区間の、時期ごとの配線の変化がよくわかる図がありました。いちばん上が高架複々線化工事の起工時、すなわち、地上複線時代の1972(昭和47)年2月からはじまります。


昭和49〜50年の経過。
以降、徐々に配線が変化して行くのがわかります。黒点線は仮線・仮駅を、黒太線は高架線を示しています。


昭和51〜52年の経過。
最初に複々線化されたのは、区間の中でも大阪方の西三荘・門真市駅付近でした。


昭和53〜54年の経過。区間の半分ほどがようやく高架複々線、高架複線になって来たところ。


そして、昭和55年。
起工から足かけ10年弱、この年の6月に、守口市駅大阪方面ホームと、線路が高架複々線に切り替えられたことで、ようやくにして本工事(予定区間の複々線化)の完成に至りました。



この間「地上仮駅→高架仮駅→地上仮駅→高架仮駅」…などというように、工事の進捗状況により、一駅ごとに地上線と地上駅や地上仮駅、高架線と高架仮駅が連続し、目まぐるしく線路の切り替えが行われるという、ややこしい配線の変更があったことがわかります。出典①。


この区間の、高架複々線建設の順序としては、

①地上線隣になんとか複線分の用地を確保してまず高架複線を建設する。



②高架複線を完成させそこに上下線を仮移設。


普段、よく行われている高架複線化工事では、ここでだいたいは完成になり、後は付帯工事のみ、という段階に至るのですが…



この工事は「高架複線化」ではなく、線路数と高架区画が複線の倍になる「高架複々線化」。
そういったことで、③地上複線跡を撤去し、さらにそこへ高架複線を建設する。


④それを、先行して開通している高架複線と横に連結することで高架複々線とし、高架に仮設されたホームを撤去して本ホームの建設工事を進める。



という具合に、通常の倍の敷地と時間を要する難工事だったようです。

そのおかげで、今日では、優等列車の線路と、各駅停車の線路が完全に分離され、この区間では追い抜き追い越しを自由に行えるようになりダイヤ組成上、多数の列車を高速度で運行することが出来るようになりました。


先ほども触れましたが、高架が完成した区間からそちらへ線路を切り替え、隣では、あたらしい高架線の建設が続く、という具合だったのであちこちで仮線の敷設を余儀なくされ、通過する列車の速度も落とさざるを得なくなります。

後日の項で述べるのですが、この当時、京阪では7両編成以上の列車を運行することは、さまざまな事情から技術的に不可能でした。


さらに、混雑著しいこの区間の複々線の全通(昭和55年)を待つ間にも乗客は年々増加、もはや打つ手はないか、という時に考え出されたのが、当時の最大編成だった7両でも、扉数を3つから5つに増やして、ラッシュ時の乗客の乗降時間を短縮させ、乗客をさらに詰め込めるという、まさにこの状況における「切り札」となるあらたな車両の建造でした。

そこで登場したのが「5000系」です。以降、出典①。


1970(昭和45)年から投入された「5000系」は当時、最も混雑していた朝の大阪方面へ向かう「区間急行」や「各駅停車」に専用の運用が組まれて次々に充当され、従来車両では積み残しが発生していたものを、5扉をフルに活用し一駅あたりの旅客乗降時間を大幅に短縮させ、ダイヤ乱れをも改善させるという大変な効果を発揮しました。




おおよそですが、乗降時間が従来では60秒だったのが、この車系では40〜50秒に、つまり一駅当たり最大20秒、短縮したといいます


これを積み重ねて行くと、3駅で1分、5駅で1分40秒、10駅では3分20秒。

と、一本でも増発をしたい朝ラッシュ時においては、ダイヤ組成上でも多大な貢献があったことがわかります。3分余裕があれば、1本は列車の増発が可能だったでしょうし…



その後「5000系」は、1980(昭和55)年までに7両×7編成、合計49両(事故廃車となったものの代替えで後年にさらに1両)が登場、京阪を代表する車両となりました。


そのような経緯があり、京阪のみならず、日本鉄道史上、記憶と記録に残る、実に画期的な車両だったと言えます。




さて、乗車している「区間急行」はほどなく、隣の「古川橋駅(同)」に到着。
わたしたち、大阪府民には免許更新でおなじみ「門真運転免許試験場」の最寄り駅です。


京都方面ホームから望む。複々線は、右へ左へと大きなカーブを描き、先へと続いています。

「5000系」の活躍と苦心の末、建設された「高架複々線」です。


(出典①「鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション25 京阪電気鉄道 1960〜70」株式会社電気車研究会 鉄道図書刊行会発行 平成25年4月号臨時増刊)

(その他出典「記念誌 クスノキは残った 土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事の記録」京阪電気鉄道株式会社編・刊 1983年)


次回に続きます。
今日はこんなところです。