みなさんこんにちは。前回からの続きです。
今項では、1972(昭和47)年に起工され、完成までに10年あまりを要した「土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事」と、その時期に投入が開始された、本題の「5000系」との関わりについて掘り下げたいと思います。

ただいま「門真市駅(大阪府門真市)」です。
くだんの、昭和40〜50年代にかけて、順次高架複々線化された区間をたどっています。
先日の記事でも触れましたが、この区間の高架複々線化というのはかなり特殊なもので、なおかつ手間と時間がかかるものでした。

沿線はすでに開発が進んで住宅密集地になっていたため、高架化に際して本来確保すべき用地にも余裕が少ない上に、旅客輸送での混雑のみならず、多数存在していた踏切も、列車本数の増加にともない、遮断時間が拡大することで大混雑を呈する(本格的なモータリゼーションがはじまった時期)…という、悪い条件ばかりが揃っていました。

先行して開通した複線高架に、上下複線が移設された「西三荘駅」(同門真市。左側は京都方面仮ホーム、右側は大阪方面ホーム)。
現在、この2線は大阪方面への優等列車線(左側)、各駅停車線(右側)となっており、さらに左側には京都方面への2線が存在する。
そういったことで、高架予定区間の全通を待たずして、建設された部分から使用を開始するということになりました。それほどまでに、混雑具合の事態は深刻だったようです。出典①。

①地上線隣になんとか複線分の用地を確保してまず高架複線を建設する。

②高架複線を完成させそこに上下線を仮移設。
普段、よく行われている高架複線化工事では、ここでだいたいは完成になり、後は付帯工事のみ、という段階に至るのですが…


④それを、先行して開通している高架複線と横に連結することで高架複々線とし、高架に仮設されたホームを撤去して本ホームの建設工事を進める。

そのおかげで、今日では、優等列車の線路と、各駅停車の線路が完全に分離され、この区間では追い抜き追い越しを自由に行えるようになりダイヤ組成上、多数の列車を高速度で運行することが出来るようになりました。

後日の項で述べるのですが、この当時、京阪では7両編成以上の列車を運行することは、さまざまな事情から技術的に不可能でした。
さらに、混雑著しいこの区間の複々線の全通(昭和55年)を待つ間にも乗客は年々増加、もはや打つ手はないか、という時に考え出されたのが、当時の最大編成だった7両でも、扉数を3つから5つに増やして、ラッシュ時の乗客の乗降時間を短縮させ、乗客をさらに詰め込めるという、まさにこの状況における「切り札」となるあらたな車両の建造でした。
そこで登場したのが「5000系」です。以降、出典①。
1970(昭和45)年から投入された「5000系」は当時、最も混雑していた朝の大阪方面へ向かう「区間急行」や「各駅停車」に専用の運用が組まれて次々に充当され、従来車両では積み残しが発生していたものを、5扉をフルに活用し一駅あたりの旅客乗降時間を大幅に短縮させ、ダイヤ乱れをも改善させるという大変な効果を発揮しました。

おおよそですが、乗降時間が従来では60秒だったのが、この車系では40〜50秒に、つまり一駅当たり最大20秒、短縮したといいます。
これを積み重ねて行くと、3駅で1分、5駅で1分40秒、10駅では3分20秒。
と、一本でも増発をしたい朝ラッシュ時においては、ダイヤ組成上でも多大な貢献があったことがわかります。3分余裕があれば、1本は列車の増発が可能だったでしょうし…

その後「5000系」は、1980(昭和55)年までに7両×7編成、合計49両(事故廃車となったものの代替えで後年にさらに1両)が登場、京阪を代表する車両となりました。
そのような経緯があり、京阪のみならず、日本鉄道史上、記憶と記録に残る、実に画期的な車両だったと言えます。
京都方面ホームから望む。複々線は、右へ左へと大きなカーブを描き、先へと続いています。
「5000系」の活躍と苦心の末、建設された「高架複々線」です。
(出典①「鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション25 京阪電気鉄道 1960〜70」株式会社電気車研究会 鉄道図書刊行会発行 平成25年4月号臨時増刊)
(その他出典「記念誌 クスノキは残った 土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事の記録」京阪電気鉄道株式会社編・刊 1983年)
今日はこんなところです。