みなさんこんにちは。前回からの続きです。
ラストランが迫った日本で唯一の多扉車(たとびらしゃ)「京阪電車5000系」と、全国的にも混雑が著しかった京阪沿線において、昭和30〜50年代に行われた旅客輸送対策のために行われた事業を、時系列に取り上げるということをしています。

「土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事」について取り上げているのですが、まずは現在、高架複々線区間の中間地点に当たる「京阪電車 守口市駅(大阪府守口市)」について、あれこれと掘り下げています。
工事は1972(昭和47)年11月に「守口市〜新門真(現在の門真市駅)間」から着工。出典①。

全長5.8kmの区間を10工区に分けて、完成した工区から順次高架線へ切り替えるという方式だったそうですが、混雑の緩和という目的のみならず、地上複線しか敷地がなかった予定地ゆえ
ます高架複線化した後、かつての地上線跡へすぐにあたらしい高架複線を建設しなければならなかった(すなわち、先行して高架複線を建設し、地上複線を高架に移設+隣の地上線跡に高架複線を建設=それらをつなげて高架複々線化する)という本工事特有の事情も影響していたようです。出典②。
さて、工事が開始されるに当たって、限られた敷地を有効に利用するために、大きな役割を果たしたのがこの「守口車庫・工場」でした。
高架複々線化工事実施の他にも、さまざまな理由で1972(昭和47)年に閉鎖され、その機能はここから先の、将来的には高架複々線が延びて来る予定の「寝屋川車両基地・工場」へ移転されました。以下、出典①。

それではここからは、その「守口車庫・工場跡」と「守口市駅」の、工事中の変遷について見てみたいと思います。
まずは、車庫と工場が撤去された直後。
1972(昭和47)年と思われますが、高架複々線化工事が着工される直前の様子です。
地上駅は画像右下、踏切の手前にありました。
車庫・工場跡地の中央部分から、このあたりの工事ははじまりました。
大阪方から土盛りの仮築堤が、奥の京都方に向かって建設されているのですが…
画像外側(北側)にあった地上線の敷地に、あらたに高架線を建設するに当たり、それらが干渉するので、この車庫・工場跡地に仮線と守口市仮駅を建設し、地上線をこちらへ移設した上でもともとの地上線を撤去し、一気に高架複々線を建設するという手法が取られました。

こちらが、移行された仮線と守口市仮駅。
手前にあった、守口市地上駅は撤去されて高架複々線の工事用地に当てられました。1976(昭和51)年頃撮影。
もともとの地上線があった場所(画像左側)には高架複々線が着々と建設されつつあります。
車庫・工場跡地に建設されていた土盛りの築堤は、この時点ですでに完成していた高架線(守口市駅京都方〜新門真駅=現在の門真市駅=間の下り大阪方面。昭和49年10月に完成)へと駆け上がるための仮線にするためのものでした。
ところで、この方角のショットで、たびたび奥に見えている、大きな「National」の看板は…
ここには「パナソニック」の本社があります。
現在ではあたらしいものに取り替えられてはいますが、遠くからでも視認出来るランドマークです。「西三荘駅(同門真市)」にて。
そして現在、同じ場所には「三菱UFJ銀行 守口支店」が存在していました!
「三和銀行→UFJ銀行→三菱東京UFJ銀行→三菱UFJ銀行」と、経営母体は合併で変わってはいるものの、場所はいささかも変わらずです。
そういったことで、かつての配線と駅の位置を
これで推測出来るので、趣味的には大変興味深いものがあります。
こういったことに気づくのは楽しいものです。
それでは、かつて仮線と仮駅が設けられていた場所、現在は「京阪百貨店守口店」となっている敷地を、実際に細見してみたいと思います。
(出典①「記念誌 クスノキは残った 土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事の記録」京阪電気鉄道株式会社編・刊 1983年)
(出典②「京阪百年のあゆみ」同 2010年)
次回に続きます。
今日はこんなところです。