みなさんこんにちは。前回からの続きです。
ラストランが迫った日本で唯一の多扉車(たとびらしゃ)「京阪電車5000系」と、全国的にも混雑が著しかった京阪沿線において、昭和30〜50年代に行われた旅客輸送対策のために行われた事業を、時系列に取り上げるということをしています。

「土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事」について、項を割いています。
ただいま「京阪電車 守口市駅(大阪府守口市)」。大阪の東の玄関口、京橋までは優等列車でわずか5分と、至便なところです。

「守口駅(昭和46年に守口市駅へ改称)」の朝ラッシュ時の大阪方面ホームの様子。
地上駅時代のものだと言いますが、現在のように立派な高架駅になる前には、ホームも狭く、拡幅もままならなかったといいます。出典①。
先日の記事でも触れましたが、ここから大阪市内へは、1933(昭和8)年にはすでに高架複々線化がなされていました。
特急・急行などの優等列車と、普通列車は線路が別だったので、この区間に限っては、追い抜きや追い越しを考慮する必要がなく、列車ダイヤを組む上では大変有利なものでした。
ただし、昭和30年代も半ばに入ると、この守口から先の門真(かどま)・寝屋川(ねやがわ)の開発が他に例を見ないほどの増加をしたことで必然的に利用客も激増、昭和初期に建設された複々線区間だけでは、到底輸送を賄える状態ではならなくなる事態に陥ります。出典②。
そういったことで、この守口市駅から東の「萱島駅(かやしまえき、同寝屋川市)」と、それに続く「寝屋川車両基地・車両工場」に隣接する「寝屋川信号所」までの高架複々線化が、社史の記載にあるように、どうしても必要な状況にあると判断されました。
1955(昭和30)〜1975(昭和50)年の京阪沿線、その人口変化を記した表。
殊に守口・門真・寝屋川・枚方の各都市では、年々爆発的に人口が増えて行ったことがわかる。出典③。
「車庫までの複々線化が必要だった」ということは、出庫した列車を複々線でもって大阪方面へ続々と出さないと輸送が追いつかないほどだったということで、ものすごい状況だったのですね。
ところで、こちらは昨日の記事でも取り上げた
高架複々線化工事が完成した直後の「守口市駅」の俯瞰写真です。昭和55年撮影、出典①。
これを拡大しますと、駅の南東側には、広大な更地が広がっているのがわかります。
ところで、くだんの「守口車庫・工場」が閉鎖されたのは1972(昭和47)年。
この項で取り上げている「土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事」がはじまった年です。
1977(昭和52)年7月改正「天満橋駅(大阪市中央区)」ポケット時刻表より。
この当時、日中の「守口市ゆき」は普通列車が毎時4本、加えて朝ラッシュ時には区間急行の設定もなされていることがわかる。現在、大阪方からの「守口市ゆき」は設定なし(京都方からは一日1本のみ設定)。ブログ主所有。
車庫と地上駅の間には、交通量の多い踏切が存在していたり、車庫がある関係で、守口折り返しの列車も終日にわたって設定があったので、列車の行き来も多く、なおさら高架化が必要だった、という事情があったようです。
さらに、ここから先の高架複々線化工事に当たっては、この車庫と工場の跡地が、大きな役割を果たすことになります。出典①。
(出典①「記念誌 クスノキは残った 土居~寝屋川信号所間高架複々線建設の記録」京阪電気鉄道株式会社編・刊 1983年)
(出典②「京阪七十年のあゆみ」同 1980年)
(出典③「京阪百年のあゆみ」同 2010年)
次回に続きます。
今日はこんなところです。