みなさんこんにちは。前回からの続きです。
ラストランが迫った日本で唯一の多扉車(たとびらしゃ)「京阪電車5000系」と、全国的にも混雑が著しかった京阪沿線において、昭和30〜50年代に行われた旅客輸送対策のために行われた事業を、時系列に取り上げるということをしています。
その一連の事業のうち、この駅を含む「土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事」について取り上げようとやって来たのは「京阪電車守口市駅(もりぐちしえき、大阪府守口市)」です。
守口は大阪市の北東部に位置しており、古くは「東海道五十三次」から続く、大坂への「京街道」宿場街・守口宿として発展して来た街で、駅名のように、ここが市の玄関口です。
ちなみに地名の由来は、大坂城を築いた豊臣秀吉により、この周辺に「守り口」のための防備を施した、という俗説が語られるのですが、かつてここが森に覆われた鬱蒼とした地域だったことから来ているようです(諸説あり)。
市電廃止後、そのルートをトレースするように「OsakaMetro谷町線」と「守口駅(同)」が開業、大阪梅田へ直通するという利便性の良さもあり、京阪とは競合関係になっています。
ところで、この駅の東口を出ますと、京阪系列の「京阪百貨店守口店」が隣接しています。
ホームに上がって来ました。
上下線ともに、ホーム2面・4線の設えです。
快速急行や急行、準急列車と、普通列車が同一のホーム上で乗り換えが可能な構造になっており、列車自体も互いにうまく接続するダイヤが組まれています。

この駅で発車を待つ、本題の「5000系」のショットを見つけました。昨年、12月撮影。
「デビュー50周年記念」のヘッドマークを掲出した編成でしたが、この5553F(第3編成7両)は今月17日に運用を離脱、すでに寝屋川車両基地で解体工事に入っているそうで…
残りは、3編成21両になってしまいました。
ラストランへ向かって、と銘打ってはいますが
いささかのさびしさを禁じ得ません。
本題に戻りまして…くだんの高架複々線は、さらにこの先、東へと方向を変え「萱島駅(かやしまえき、同寝屋川市)」と、それにつながる「寝屋川信号所(同)」まで続いています。
高架複々線化直後の「守口市駅」の様子、1980(昭和55)年。この先に多数存在していた踏切が廃止されたとともに、複々線化により、列車の大幅な増発が可能になりました。出典①。
それでは、この駅にまつわる工事の経過について、さらに掘り下げてみたいと思います。
(出典①「記念誌 クスノキは残った 土居~寝屋川信号所間高架複々線建設の記録」京阪電気鉄道株式会社編・刊 1983年)
次回に続きます。
今日はこんなところです。