多扉車の元祖「京阪電車5000系」ラストランへ向かって〜その19 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

 
ラストランが迫った日本で唯一の多扉車(たとびらしゃ)「京阪電車5000系」と、全国的にも朝ラッシュ時の混雑が著しかった京阪沿線において、昭和30〜50年代に行われた旅客輸送対策のために行われた事業を、時系列に取り上げるということをしています。
 

 
1972(昭和47)年に着工、付帯工事を含めると完成までには約10年の歳月を要した「土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事」、まずはその起点に当たる「京阪電車守口市駅(大阪府守口市)」の変遷について、項を割いています。

駅の北側にやって来ました。
現在は高架複々線となっている駅舎とホーム。
 
 
高架複々線化工事が進むほぼ同じ場所の様子。
画像左下に白い軽トラが停まっていますが、先ほどの現在ショットは、だいたいその後ろあたりから駅舎と高架線を望んだものです。 

守口市仮駅が使用開始されている頃のもので、高架躯体の工事の進捗具合から完成近い1978〜79(昭和53〜54)年過ぎと思われます。 
 

 
ところで、列車の追い抜き追い越しが可能な、広大な敷地に設けられた守口市仮駅。かつては「守口車庫・工場」があり、その跡地に仮設された、ということを先日の記事で触れました。 

さらに、この駅が高架複々線化された5年後の
1985(昭和60)年、再度その敷地を活かして「京阪百貨店守口店」が開業しました。 
 

グーグル地図を加工。
地上仮線、仮駅と、すでに一部が開通していた高架線(緑色の線)の様子を図示しています。
赤い矢印は、そのあたらしい高架線へとアプローチするための、仮設土盛り築堤が設けられていた場所に当たります。
 
 
それでは当時、仮線と守口市仮駅、そして先行開通していた高架線へのアプローチ部分について、現在の様子と比較してみたいと思います。 

現在の高架駅から少し東へ行ったところ、百貨店の駐車場になっているこのあたりに、仮線・守口市仮駅・高架線へのアプローチ部分が存在していました。
 
 
駐車場に続く、百貨店の東口周辺が仮駅。 
 
 
さらに、地上で東の京都方向へ進みまして… 
 
 
このあたりから、仮設築堤で先行開通していた高架線にアプローチしていたようです。 
当然ですが、仮設だった当時の設備は面影もありません。 
 
 
守口市仮駅を通過、仮設築堤を登り京都へ向かう2200系の、京都三条ゆき急行列車。
同じく1978〜79(昭和53〜54)年頃と思われるのですが… 

 
現在の、ほぼ同じ場所の様子。高架複々線だけが、その位置を判別するもののようです。 
 
 
ところで、2つ前の写真を拡大してみますと、その土盛り築堤と、先行開通していた高架線との接続部分とは、守口市仮駅からは複々線のままで高架線につながっていることがわかります。
 
 
線路が4本分もある複々線ですから、仮設とはいえど、かなりの幅があったはずです。
気になったので、その接続部分(赤い□内)の様子をさらに探ってみることにします。

(出典 「記念誌 クスノキは残った 土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事の記録」京阪電気鉄道株式会社編・刊 1983年)

次回に続きます。
今日はこんなところです。