寺社仏閣と御朱印を巡る~その8 野崎観音慈眼寺(大阪府大東市)⑤ | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

 

 

「寺社仏閣と御朱印を巡る」と題して、先月末に「野崎観音慈眼寺(のざきかんのん じげんじ)」を訪れた際の様子をお送りしています。

 

 

それでは、さっそくお参りをすべく境内に入ります。

見事な桜並木とともに、色とりどりの春の花々の姿に、本当にほっとします。

 

すさんだ気持ちになりがちな今年は、本当になおのことそう感じます。

 

 

 

 

では、この「野崎観音慈眼寺」については、同山のホームページにあった解説からたどって行くことにします。

 

 

野崎観音は、福聚山慈眼寺(ふくじゅさん じげんじ)といい禅宗のお寺です。

今から1300年ほど前、天平勝宝年間(749〜757年)に大仏開眼のため来朝した婆羅門僧正(ばらもんそうじょう、?-760。インド出身の高僧。仏教布教のために来日。東大寺大仏開眼の際にも立ち会うなど、多くの功績を残した)が「野崎の地は釈迦が初めて仏法を説いた鹿野苑(ハラナ)によく似ている」と行基様(ぎょうき、668-749。奈良時代の高僧。庶民への仏教布教で篤い信仰を得た他、ため池の建設、貧民の救済活動など、生涯を庶民の救済に尽くしたことで知られる)に申されました。

 

感動された行基様は、観音様のお姿(十一面観音)を彫みこの地に安置されましたのがこのお寺のはじまりです。

幾多の戦乱のため荒れはて、1565年(永禄8年)三好・松永の兵によって全焼し、本尊の観音様だけが残りました。

長い間、小さいお堂のままでおまつりしてありましたが、元和2年(1616年)青厳和尚がこのお寺を復興され、元禄宝永ごろにのざきまいりが盛んになると共に、お寺も栄え、現在に到っています。

 

 

本堂の横には、小さいこのお堂があります。

 

 

三十三所観音堂
西国礼所一番那智山から、三十三番谷汲山までの観音様をおまつりしています。

このお堂にお参りになれば、三十三霊場を一度に拝むことができます。

 

 

「西国三十三ヶ所巡り」と言いますと、解説にもあるように、近畿から東海地方にわたっての広い地域に点在する、古くから歴史のある観音寺を巡り、ご利益を得ようという巡礼として、古くから知られています。

 

 

ここ「野崎観音慈眼寺」は三十三ヶ所には含まれない霊場ですが、この観音堂一か所で「三十三ヶ所の観音様」をすべてお参りすることが出来るのだとのこと。

 

それほどのものが、番外のこちらの観音寺にある理由は定かでないのですが、ともかく古くから重要な存在だったことは相違ないようです。

しかし、自由に旅行など出来ない当時の人々にとっては、ものすごくありがたいものだったのでしょうね。

 

 

さらに、その奥にもお堂が点在しているのですが…

 

 

江口の君堂
本堂の隣にあり当山中興の祖、江口の君をおまつりしています。

女性をお守りくださる仏様と言われ、縁結び・安産・子授け・婦人病などに悩むあらゆる女性をお守りくださいます。

君像は美しく彩色された官女風のお姿で、気高く、りんとして座しておられます。

 

 

祀られているのは「江口の君(えぐちのきみ)」という、現在の大阪市東淀川区・江口付近で、平安時代の末期に白拍子を演じていたという女性だそうです。

 

長患いしていた病を、観音様への祈願で快癒したことに感激し、かつて門真付近(かどま、現在の大阪府門真市)の低湿地にあり、水害にたびたび悩まされていた慈眼寺をここに移設し、再建させたという「中興の祖」として、女性参拝者の信仰を集めているとのこと。

 

 

 

さらに調べてみますと、東淀川には、この「江口の君」にゆかりのある「江口君堂(寂光寺)」というお寺もあるそうです。


現在の「OsakaMetro今里筋線 瑞光四丁目駅」、あるいは「井高野駅」の近くにあるお寺だそうですが、これは知りませんでした。

幾度かお参りしたことのある観音様とはいえど、このようにじっくり巡っていますと、いろいろな由緒があるのだなと感心しきりです。

 

次回に続きます。

今日はこんなところです。