みなさんこんにちは。前回からの続きです。
「寺社仏閣と御朱印を巡る」と題して、先月末に「野崎観音慈眼寺(のざきかんのん じげんじ)」を訪れた際の様子をお送りしています。
ところで、霊厳あらたかなこちらの観音様にお参りする「野崎参り」は昔から、大阪近郊の人々にとって一大レジャーだった…ということを、先日の記事でも触れました。
その「野崎参り」については…
当ブログではすっかりおなじみ?になりましたこちらの「各駅停車全国歴史散歩28 大阪府」(大谷晃一著・河出書房新社刊 昭和55年1月初版 絶版)から拾ってみます。
野崎まいりの町 野崎
野崎まいり
♪野崎まいりは屋形船でまいろ
どこを向いても菜の花ざかり…
昭和のはじめ、東海林太郎が歌って大ヒットした「野崎小唄」。
一面の菜の花畑は、すっかり住宅や工場に変わり、歌に歌われたかつての水郷地帯ののどかな情景を探すのはむずかしい。
その野崎まいりで知られる野崎観音慈眼寺の無縁仏法要は、毎年五月一日から一〇日に行われ参詣客でにぎわう。
現在の寝屋川。「JR住道駅(大阪府大東市)」駅前にて。鯉のぼりが泳ぐとある5月に撮影。
特に江戸時代には、寝屋川の舟運も盛んで、舟に乗った人と堤防を行く人と互いに悪口を言い合いながら、野崎観音にお参りする風習があった。悪口を吐くことによって諸悪が追放されるともいわれ、長い道中の退屈しのぎにもなった。(後略、P208)
「寝屋川(ねやがわ)」とは、大阪平野を東西に流れる一級河川です(緑色↓)。
これを西へ行きますと、現在の「天満橋(てんまばし、大阪市中央区)」に近い「八軒屋浜(はちけんやはま)」が「野崎参りの屋形船」の出発地点でした。地図の右下には大阪城のお堀が見えるところです。
いまも昔もここはにぎやかな大阪の中心です。
現在では「川の駅はちけんや」として、「寝屋川」から別れ、市内中心部を流れる「大川」の遊覧船が発着する、水都・大阪を象徴するところでもあります。
そこから屋形船で「寝屋川」へ屋形船は進みます。
ただこのように、現在ではコンクリートで設えられた頑丈な護岸が続く、何の変哲もない姿です。
ただ、「屋形船で参ろ」の当時は、川っぺりは土の堤で、屋形船に乗る人々と、堤防を歩いて参拝に向かう人々との応酬?がさかんになされていたようです。
その様子は、「喜六」と「清八」という二人が参詣する、江戸時代の落語の演目「野崎参り」でおもしろおかしく取り上げられています。
毎度おなじみ「Wikipedia #野崎参り」には、こんなくだりがありました。
…喜六が堤を見上げると、美しい女が歩いているので、思わずはやし立て、騒ぐ。
清八がたしためると、喜六は「わい、黙ってたら口の中に虫が湧く性分やねん」とまぜ返す。
清八は「ほたら(それなら)丁度ええわい、土手通ってる連中と、喧嘩せえ」と吹き込む。
喜六が「土手の上から石投げられたら、逃げられへんで、わい負ける」とおびえると、
清八は「アホやなあ、野崎参りの喧嘩は『振売喧嘩(ふりうりけんか)』ちゅうて(と言って)、手ぇひとつ出さん、口だけで喧嘩するここの名物やがな。船に乗ったモンと土手歩くモンで口喧嘩して、喧嘩に勝てば、その年の運がええという、運定めの喧嘩や。
船が着いて、土手に上がったら、仲直りしもって(して)、踊りながら行て、どっかで酒飲むねん」と教える。
喜六は乗り気になり、さっそく喧嘩を売り始める(中略)…
「おーい、女に傘さしかけてる奴ー」
「へーえ、わたいでっかー」
「へえへえ、あんたでやっせー」
「どあほ、喧嘩にそないな(そんな)丁寧な言い方言うてどうするねん」
「おーい…め、夫婦(めおと)気取りで、あ、歩いてけつかる(やがる)けどもー…なあ、せやな?」
「『それはおのれの嬶(かかあ)やなかろ(じゃないの)』や」
「そ、それは、おのれの嬶やなかろ」
「…それは違いますぞな。これはうちの家内じゃ。これから仲よく参拝いたしますのじゃ」
「へえ。それはまあ、お楽しみ…」
喧嘩が喜六の敗北となりかけたところ、清八が「おーい、馬の糞踏んでるぞー」と叫ぶ。
すると男は、「どこにー」と返しつつ、下を向く。
清八は「嘘じゃーい。これでわいの勝ちや」と誇る…
…いやはや、中河内の地元民(わたし)が聞いてもたいがいな言葉のきつさです(苦笑)。
相当に口汚く罵っていますが、もちろんこれは無礼講。
さまざまな制約に縛られた、当時の庶民にとっては、絶好の?憂さ晴らしだったのでしょう。
その「寝屋川」(青い↓)を、屋形船は「野崎観音」へと向かって行くのですが…
「屋形船での野崎参り」がさかんだった、江戸時代の当時の地図(Wikipedia#深野池より)。
現在のそれとは、まったく異なる地形であることがわかります(上の地図とほぼ同じ場所です)。
現在ではまったく想像もつきませんが、当時、大阪平野はこのあたりまで川や内湖が広がっていて、実に山肌の近くまで、水運交通がさかんでした。
さらにこれを拡大。
野崎のすぐ近くまで、舟で到達出来たことがわかります。近くには「ふかう(ふこう)の池」という、寝屋川のひときわ幅の広い箇所がありますが…
現在では、野崎近くの「深北緑地(ふこきたりょくち)」敷地内の池(深野池、ふこのいけ)にその名残が残るのみです(青い□内)。
江戸中期以降、このあたりでは大規模な河川の付け替えがなされ、跡地は水田に生まれ変わりました。
いわゆる「新田開発」で、当時の大阪の豪商(財力の大きな商人)によって積極的に行われたことが知られています。
そういったことで、この情景を見るに「野崎参り」というのは大変楽しい(大阪弁では「おもろい」)道中だったようで…
一度は体験してみたいものではあります(笑)
次回に続きます。
今日はこんなところです。