上州名物からっ風!上信電鉄沿線を巡る旅 その10 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。
「上州名物からっ風」に吹かれ「上信電鉄沿線」を巡った、旅の様子をお送りしています。

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さて、ここは「富岡製糸場(群馬県富岡市)」です。
明治5(1872)年に官営工場として操業を開始した、近代日本の殖産興業を象徴するもののひとつとして著名なものですが、こちらの見学をしているというところです。

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さまざまな展示がある中、こんなものもありました。
「カイコ生態展示」なるもの。

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おっ、居る居る!白い身体の「カイコ」です。
この「カイコ」を生産しているのが「養蚕業」。
そして、養蚕農家からこちらの製糸場に運ばれた「カイコ」から…

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このような「生糸」が出来上がります。

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しかし、その横にあった「繭」の種類の多さ…
色も形もさまざまですが、キレイなものなのですね。

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その「養蚕」についての詳しい説明もありました。
ここ「上州」では昔からこの「養蚕業」が盛んで、良質な生糸が生産されることで知られていて、その土地柄ゆえ、ここに「富岡製糸場」が設けられた大きな要因になったのだとのこと。

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「製糸場」に運ばれたカイコは、ここで「製糸」の段階に入ります。

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この六角形の木枠に、巻き取られていく生糸!
上州富岡駅を出て、こちらに向かう街中でも、それをモニュメントにしたものをいくつか目にしました。
これはそれだけ「製糸」の象徴的なものなのかも知れません。

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そして、生糸からはさまざまな「絹製品」がつくられて行きます。

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しかし、カイコの生産から製糸、そして機織りと、「絹製品」が手元に届くのには、かなりの手間ひまを要するものなのだなと感じます。

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ちょうど、江戸期に農家で行っていた「糸繰り」の実演が行われていました。ガタンゴトンとリズムよく、機械を回しておられる姿が印象的でした。

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では、製糸場内部の建物をさらに見学して行きたいと思います。
こちらは操業を開始した「明治5(1872)年」に技術者として指導に当たった「ポール・ブリューナー」と、家族が居住していた「ブリューナー館」。

結構、大きな建物です。
後年には、工女の夜学校にも使用されていたとのこと。

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この木造の建物…自分の小学生の頃には、こういった古い木造校舎が残っていたなと、ふと思い出してしまいます。

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その木柱にあった「火元用心 禁煙」のタイル。
いや~、しかしいい味を醸し出していますよね。
タイル文字というのも、最近はとんと目にしなくなりました。

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先ほど触れたように、ここは「工女たちの学校」として活用されていました。そこかしこに、その面影が見られます。

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ちょうど、企画展を行っているところでした。

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内部はこんな感じ。
立派な講堂になっていて、式典の類はここで行われていたそうです。

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続いて、やって来たのは「製糸場」の南側にあたるところです。
先ほどの「ブリューナー館」に隣接した、こちらも古い建物ですが…

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こちらも木造ながら、大きく取られたガラス面が印象的です。
よく陽が入り、中はさぞかし明るいのではないかと思われます。

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「榛名寮(はるなりょう)」という、工女たちの寄宿舎でした。大正7年築。

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その「榛名寮」のすぐ南側には、腰の曲がった立派な梅の木がありました。
建物同様、こちらも味わいがありますね。

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訪問したのは2月の半ばを少し過ぎた頃でした。
梅がちらほらと花をつけていました。少し、愉しんで行こうかと思います。

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寄宿舎の窓から、工女たちも毎年、この梅を見たのでしょうね。

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ところで、寄宿舎は先ほどのものだけではなく、別にもありました。
「浅間寮」(右側)と「妙義寮」(左側)。いずれも、昭和15年建設。

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ということは、築80年近い建物ですね。
そういったことからか、こちらは見学は出来ず。

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こちらの二つの寮が建設されたのは、翌年に「アジア太平洋戦争」の開戦を控えた年でした。「殖産興業」否、当時は「軍需産業」ということで、当時はどんな工場の様子だったのでしょうか。

次回に続きます。
今日はこんなところです。