「上州名物からっ風」に吹かれ「上信電鉄沿線」を巡った旅の様子をお送りしています。















































さて、いよいよやって来たのは、近代日本に芽生えた「殖産興業」を代表する史跡、世界遺産「富岡製糸場」(群馬県富岡市)です。
正面の入り口から入ったすぐのところに、さっそく、大きなレンガ造りの建物が堂々としたたたずまいです。生糸の原料となる「繭」を保管していた、東西に分かれた「置繭所(おきまゆじょ)」というものです。

その門には、この「富岡製糸場」が操業を開始した「明治五年」の文字も見られます。

その「東置繭所1階」がメイン展示室になっていました。

展示室の前にあった最初のパネル。その敷地の広さに驚くとともに、開場当時の錦絵を見ますと、あたかも「西洋の城郭」のようです。

それでは、展示室内の展示をじっくりと拝見して行こうと思うのですが…

こちらでは「製糸場」が「富岡」に設けられ、操業をはじめたゆえんや、その後の発展、また、工場内での工女の生活などについて、大変興味深い展示がなされていました。ここからは先日来、登場している、
「各駅停車全国歴史散歩11 群馬県」
(土井耕作著・河出書房新社編 昭和58年7月初版 絶版)
にも分かりやすい紹介があったので、この書籍とパネル展示に沿って、製糸場内部に設けられたさまざまな施設も垣間見ながら、項を進めて行きたいと思います。
蚕糸王国の象徴 上州富岡
上州が誇った富岡製糸場
富岡駅のホームに降り立つと、西北に奇峰・妙義山がよく見える。
駅前広場は下仁田・松井田・甘楽(かんら)方面へのバスターミナルで、沿線の中枢都市としての顔がうかがえる。

さて、富岡市といえば、まず富岡製糸場が思い起こされる。
富岡製糸場は明治五年九月、日本で最初の官営模範工場として開設された。

安政の横浜開港以来、日本の生糸産業は飛躍的に発展し、外貨を獲得する上でもっとも重要な産業となった。
そこで政府はフランス人・ブリューナー(ポール・ブリューナー、1840-1904。フランス人の生糸生産者。幕末期に来日し、明治新政府によって欧米の先進的な技術や知識を導入する目的で雇用された、いわゆる「お雇い外国人」として富岡製糸場の開設に尽力した)に委嘱して、官営の製糸場を建設するため信州、上州、武州などの各地を踏査していた。

上州では最初下仁田町が有力な候補地であったが、結局富岡市の旧藩陣屋跡一万六八〇〇坪を製糸場にすることに決定した。
富岡が選ばれた理由としては、養蚕地として良質の繭が入る、近くを流れる鏑川、高田川の水量が豊富で水質も適している、工業用蒸気エンジンを動かすボイラーの燃料、石炭(亜炭)が街道沿線の寺尾村(片岡村への合併を経て現在は高崎市の一部)から採掘される、自然の環境が良好、などの好条件があげられた。







「国宝」に指定されている「東置繭所」。広大な倉庫の内部は、その木造の温かさも加わって、あたかも神秘的な雰囲気を醸し出している。
建設工事はブリューナーの指導のもとに器械はフランス式、石炭による蒸気エンジンを動力とし、釜数三〇〇、建物はすべてレンガ造りであった。
建築材料のほとんどは地元周辺でまかなわれた。
礎石は小幡(おばた、現在の甘楽郡甘楽町)の連石山から採掘し、レンガは笹森稲荷(現在の甘楽郡甘楽町にある笹森稲荷神社。富岡から南に位置する)に窯をつくってそこの粘土を焼いた。レンガを積み上げるときの目地、接着剤は下仁田青倉の石灰を使った。工事は一年七カ月かかって明治五年七月に完成した。建設諸経費はしめて一九万八五七二円であった(注釈:かなり乱暴に現在の貨幣価値に換算すると、10~20億円くらい)。

渋沢栄一(しぶさわ・えいいち、1840-1931。現在の埼玉県深谷市出身。江戸末期から大正時代にかけて活躍した実業家。多種多様な企業の設立や運営に当たり「日本資本主義の父」とも呼ばれる)が顧問、尾高惇忠(おだか・あつただ、1830-1901。現在の埼玉県深谷市出身。先の渋沢栄一の従兄。富岡製糸場初代所長、第一国立銀行仙台支店の支配人を務める)が所長となって、同年一〇月に富岡製糸場は操業を開始した。当時、外国人指導員はブリューナー以下女教師、医師を含めて一一人であった。


しかし当初は工女がなかなか集まらず、尾高所長自ら娘(長女・勇=ゆう=)を入所させ、各県に豪農、士族の子女の派遣を求めた。
こうして翌年一月には一府一三県から四〇九名の伝習生が集まり、彼女らは技術革新の原動力となって、富岡製糸場の名は全国に広まった。
試みに明治一七年までの伝習生の出身県別を見ると、北は北海道から南は九州までほとんど全国にわたっている。


「富岡日記」の抜粋より。当時の操業や工女の生活について記された日記。
なお伝習生の一人だった信州松代(まつだい)の区長・横田数馬の娘、和田英(わだ・えい、1857-1929)の『富岡日記』は当時の工場内における工女の生活を詳細に伝えている(筑摩書房より単行本が刊行されています)。



「第一に目に付きましたは、糸とり台でありました。台からはひしゃく、さじ、朝がお二個、皆真ちゅう、それが一点の曇りもなく、金色目を射るばかり…」


赤いレンガ造りの洋風建築、蒸気を噴きながら回転するボイラーエンジン、いっせいに動き出す製糸器械、言葉も風俗もちがう外国人指導員たち…
当時の人びとにとってはどれをとっても驚くものばかりだった。
ともあれこの富岡製糸場の開設は、その後のわが国の蚕糸業界に、はかりしれない影響と繁栄を与えた。





官営富岡製糸場は、明治二六年に民間経営に移り、三井、原(原合名会社。代表は原富太郎=はら・とみたろう、1868-1939。全国に多くの製糸場を保有していた。明治35年からこの「富岡製糸場」を保有)の手を経て現在は片倉工業(昭和13年から。当時、日本最大規模の繊維企業)の富岡工場として操業を続けている。
富岡駅から歩いて一〇分の正面には、「片倉工業㈱富岡工場」と「片倉富岡高等学園」の大きな表札が掲げられている。
(注釈:ここ「片倉工業富岡工場」の閉鎖は、本書の発刊から4年後の昭和62年2月。閉鎖後も、片倉はこの歴史的な建造物の維持・管理に尽力した。)

国宝「東置繭所」を望む。
正面に高さ一四㍍、長さ一〇四・四㍍の赤レンガ造り、西欧風二階建ての貯繭倉庫が建っている。中央が通路になっていて、中門の石額に、歴史を語る「明治五年」の刻字が見える。









現代的な器具が、実に整然と並ぶ操糸工場。
工場の閉鎖(昭和62年)まで使用されていたとのこと。
貯繭倉庫は東西に二棟あり、操糸工場…


お雇い外国人・ブリューナーが家族とともに居住していた「ブリューナー館」。後年には、その広さゆえ工女の夜学校などとして活用された。


「ブリューナー館」近くにある「診療所(明治期には”病院”と呼称されていた)」。工女の生活は、こうしたところの保証までにも及んでいた。
ブリューナー館、校舎、事務所など往時の姿のままで建っている。

全国各地からここを見学に訪れる人は後を絶たない。
広い中庭に、樹齢三〇〇余年の松が四本、みごとな枝ぶりを見せており、その向こうで現代っ子たちがバレーボールに興じているのが印象的であった。
(出典同 P144-146)



「世界遺産」登録の認定書(複製)。
”Tomioka Silk Mill and Related Sites(富岡製糸場とそれに関連する遺跡)”
とある。
このように、明治初期の創業以来、歴史的に大変重要な意義を持つ建造物が昭和62(1987)年の工場閉鎖後も、最後の所有者・片倉工業が大切に維持・管理して来たことも相まり、歴史的な意義がさらに深まったことで、平成17(2005)年には「国の史跡」、平成18(2006)年には多くの建造物が「重要文化財」に、平成26(2014)年には一部が「国宝」に指定され、同年には「世界遺産」にも登録されました。
「日本のみならず世界にとって重要な遺産」という評価ですね。
では、この「富岡製糸場」について知ったところで、構内の散策をしばし続けてみることにします。
次回に続きます。
今日はこんなところです。