松山・広島割引きっぷで行く 春の瀬戸内を日帰り旅 その14 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

早朝に大阪を出発し、広島・松山を巡って来た初春の日帰り旅をお送りしています。午後6時41分、もう暗くなった松山駅を出発した「特急 しおかぜ30号」の車中の人となって、あとは岡山で乗り換えて大阪へ帰るだけですが…

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朝早かったのと、やはり疲れたのでしょうか…
松山駅を出てから、少し居眠っていたようです。

目を覚ますと、「しおかぜ30号」はここ「今治駅(いまばりえき、愛媛県今治市)」に停まっていました。30分あまりは落ちていたでしょうか( ;∀;)

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今治は、松山からでは北東に進んだところにある街です。
そう、あの「しまなみ海道」の四国側の玄関に当たるところですが、今日、旅して来た場所、「広島・呉・松山」といった位置関係を地図でみますと、結構な移動をして来たのだな…と感じます。

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ところで、外はもう真っ暗です( ;∀;)
だからという訳ではないのですが(笑)以前、ちょうどこの春の時期、大阪から「青春18きっぷ」で、ここ「今治」まで旅した時の記録を探して来ました(その時も日帰りでした笑)。

今回は、ここで下車する訳ではないのですが、その際の様子をお送りしたいと思います。よろしければ、こちらにもどうぞおつきあいください(^_^)
平成14(2002)年4月にした旅でした。

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それでは、例によって…
先日の記事でもご紹介した、
「各駅停車全国歴史散歩39 愛媛県」
(愛媛新聞社編 河出書房新社刊 昭和55年3月初版 絶版)
とともに、この「今治」と、訪問の際の記録を拾ってみたいと思います。

商工観光都市 今治
発着一日三〇〇便
ところで、「みなと今治」も代表的な顔。大正一一年二月、四国初の開港場に指定された今治港は、中四国を結ぶ最短距離として絶えず海上交通の最先端を歩んできた。今治港は明治のはじめまでは小さな港に過ぎなかったが、商工業の発展に伴い多くの船が寄港するようになった(中略)。

昭和三四年九月、防波堤の付け根の岸壁を使って、民営では全国で初めて今治―三原(広島県)間にカーフェリーが運航を開始、フェリー時代の幕を開けた。フェリー時代の到来はその後、同港に大、中、小のフェリー岸壁を出現させた。さらに交通のスピード化に対応し、三九年尾道航路に水中翼船が就航、四七年には三原航路に高速艇、広島航路に水中翼船が就航、三原と六〇分、広島と九〇分の距離になった。

また五〇年の山陽新幹線開通時にはわが国初の双胴高速艇が三原航路に増便され、島しょ部航路にもそれぞれ高速艇が就航。そして五二年四月には八〇年の歴史をもつ今治―尾道(広島県)鉄道連絡船が高速船にバトンタッチ。
ここ一〇年余りの間に今治港は大きく変容した。
五二年春の同港発着定期旅客船は一九航路。一日当たり三百余便が時間によっては分刻みで運航(後略)。(出典同 P61)

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ここ今治は、瀬戸内海の島しょ群を経由しながら、広島・尾道へとつながる「しまなみ海道」の四国側の玄関口として知られています。
平成10(1999)年に全線が開業したのですが、多島美や豊かな自然が人気を博していることは有名です。

それ以前は、瀬戸内海の往来には、本州・四国側ともにさまざまな方面を相互に結ぶ航路が主役でした。
特に「山陽新幹線・博多開業」(昭和50年3月)での「三原駅への新幹線駅新設」で、一躍、瀬戸内海観光のメインアクセスとなった、先の「三原・尾道~今治航路」は、その白眉だったようです。

ただ、そういった中・長距離航路は平成21(2009)年5月、「しまなみ海道」の全通などにより、今治への寄港便はすべて廃止されたとのこと。
「時代の流れ」というものでしょうか。

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その「しまなみ海道」の玄関口として以外にも、「今治城」が有名です。
城跡は公園になっていて、多くの人でにぎわっていたことを覚えています。

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(前略)今治港に近い今治城も同市を代表する観光名所。今治城も関ヶ原の戦功で伊予(愛媛県)東半を領し、二〇万三〇〇〇石の大名となった藤堂高虎(とうどう・たかとら、1556-1630。戦国・江戸期の武将、大名。近江・浅井家をはじめに、豊臣家や、関ヶ原の戦いの前には徳川家に仕え、家康公から絶大な信頼を受けていたとされる)の築城による。慶長九年(一六〇四)に完成した平城だが、堀には近くの海から海水を導き、「今張の浦」に舟だまりを設けるなど、当時としては他に例を見ない一大海岸城だった。そのとき、地名も現在の「今治(いまばり)」に改められたという。

現在、残っているのは内堀と、本丸、二の丸の城塞だけだが、海辺の白砂を吹き揚げたような城台の構えから吹揚城(ふきあげじょう)の別名がつき、桜の名所、市民の公園として親しまれている(後略)。(出典同 P62)

ちなみに、「今治」という地名についてですが、

〇「今」は新しい。
 「治」は「墾(はり)・開(はり)」などで開墾のこと。
〇新治(にいはり、にいはる、など。前者は茨城県筑西市などに存在)と同じ意味。
〇愛媛県今治市。「いまはる」「いまはり」ともいい、今張・今針・今墾とも書く。地名は新しい開拓地を意味する。
(出典「角川日本地名大辞典」)           

とありました。

しかし、先の「藤堂高虎」が慶長9(1604)年、この地に今治城を築城した際、「今からこの地を治める」ということでこの地を「今治」と改名した、ということが広く知られているようです。

この説の方が、実にわかりやすくしっくり理解出来そうですが…
しかし、地名の由来というのは興味深いものですね。

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ところで、ここは四国では有数の「桜の名所」として知られているようです。
ちょうど、訪問した時にはこの満開の桜、まさに絶景でした!

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しかし、白いお城をバックにした桜。これ以上ない、美しい春の光景です。
とても気持ちのよい気分で、お城を後にしたことを記憶しています。

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ところで、今治城を訪れる前、確か今治の少し先、波方駅(なみかたえき、同)まで予讃線の普通列車に乗車していたのですが、その車窓から、見事な菜畑が広がっているのを見つけました。

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車窓からでも、目を奪われるほどのものでした。
思わず?途中下車し、駅近くのその菜畑に行ってみました。

こんなことをしたのは、実ははじめてだというくらいのことでした('ω')

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次の列車まで、春の穏やかな雰囲気で満たされました。
いまだに脳裏に残る、実にいい春の思い出でした。

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ところで、この今治や、思わず?途中下車した波止浜、波方駅があるのは、この愛媛県の中央付近に、まるでコブのように突き出した「高縄半島(たかなわはんとう)」です。

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少し、拡大したところ。
予讃線は、この高縄半島に忠実に沿うように、ぐるっと大回りして、今治や、その先の西条・新居浜方面へと線路を延ばしています。

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一見すると、遠回りにも思えるこの大回りですが、これは古くからの主要な海運都市、その今治を経由するがためのものだったのでしょうね。
対照的に、松山道はその高縄半島のつけ根を横切っているのがわかります。

では、この高縄半島と、思わず?途中下車した「波方駅」についても、先の「各駅停車全国歴史散歩」から拾ってみます。

瀬戸はわが庭、海運の町 波方
一杯船主がかけ巡る
来島海峡、斎灘(いつきなだ。瀬戸内海西部の海域を指す)をふところに瀬戸内海に突き出した四国の最北端(陸地部)、高縄半島(たかなわはんとう)に波方町(なみかたちょう)がある。
「波方(はかた)と地獄は用がなきゃ行くな」といわれた地方だったが、昭和三五年、町政を実施、呼称も「はかた」から「なみかた」に変わった。
”海運の町”である。
波方町の海運業は外航船九社・二四隻、内航船九二社・一二九隻(五三年四月現在)。内航船(うちこうせん)は家族ぐるみで運行する、いわば”一杯船主”が特徴で、大半の五八社が占めている。瀬戸内海を小型船で乗り出し、わが庭のようにかけ回るさまは、全国有数の海運の町にふさわしい(後略)。

伊予水軍の誇り
そもそも同町の海運は歴史的必然性がある。というのは室町時代から戦国時代にかけ瀬戸内海を勇躍した村上水軍は同町の先祖を形成する、とみられている(中略)。来島水軍の血が脈々と流れており、”海の男”には水軍の誇りと心意気がうかがわれる(後略、出典同 P66)。

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なるほど…村上水軍、これは歴史の授業でも耳にしたことがあります。
「瀬戸内海を本拠にした猛者」というイメージがあるのですが、船の操業ではいまなお、そのイメージを残している、といったところでしょうか。

今回は下車すらしていないのにも関わらず、いろいろと述べました(笑)

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そこからはもう覚醒してしまいました(笑)
闇夜の中を列車は県境を越え、いつの間にか香川へと入っていました。

ところで、まだまだ真っ暗が続くので(笑)
ここからも、その「今治日帰り旅」の様子を続けてお送りします。
到着したのは「多度津駅(たどつえき、香川県仲多度郡多度津町)」

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ここも四国では有数の重要な拠点駅で、高松・岡山方面から松山へ向かう予讃線と、高知方面への土讃線(どさんせん)が分岐する、交通の要衝になっています。背後の湘南色の電車が懐かしいですね。

分岐する土讃線を少し行くと、あの金比羅さん(金刀比羅宮、琴平町)もすぐ、というところです。ここまで来れば、もうすぐ瀬戸大橋です。

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多度津駅ホームにあった、石鎚山(いしづちさん)の観光案内。
「国鉄百年記念」とあるので、昭和47(1972)年のものでしょうか。

次回に続きます。
今日はこんなところです。